Q (127)「マグノリアの木」についての質問です。諒安というのは、お坊さんですか。また、仏教的な意味の含まれた名前なのでしょうか。
それから、終りの方で、歌を歌っていた人が、「ええ、私です。またあなたです。な ぜなら私というのもまたあなたが感じているのですから。」と言い、諒安が「そうで す、ありがとう、私です。またあなたです。なぜなら私というものもまたあなたの中 にあるのですから。」と答えたのは、一種の悟りと考えていいのでしょうか?
諒安が自分の中に、ほとけ(仏)を感じたのでしょうか。
何か、ご意見、参考になる事があれば、教えて下さい。(もくれん)

A
Date: Tue, 3 Jul 2001   あさしさん


Date: Tue, 3 Jul 2001
   あさし

この作品は主人公の諒安が険しい山や谷を乗り越えて頂上の平地にたどり着き、花咲くマグノリアの木を見、2人の子供と1人の男と出会う話ですね。
賢治は「マグノリアの木こそ、寂静印(悟りの境地)」であると考えていた様で、この物語は諒安が(内面的な)葛藤の末に悟りの境地に達し、自分の心の中にいる(<ここが重要)仏と出会う話だと思います。

(以下引用)
「あなたですか、さっきから霧の中やらでお歌いになった方は。」
「ええ、私です。又あなたです。なぜなら私というものも又あなたが感じているのですから。」
「そうです、ありがとう、私です、又あなたです。なぜなら私というものも又あなたの中にあるのですから。」
(引用終わり)

しかし、恥ずかしながら、私は数年前にこの作品を初めて読んだときには2人の会話がさっぱり解りませんでした。(諒安が仏と出会う話、というのは解りましたが、なぜ「私です。又あなたです。」と同一の存在であることを強調しているのか・・・) 他の賢治作品を読み続けるうちに、少しずつですがこの作品の意味しているところがわかるようになりました。
賢治は、「悟りとは、己!!の内面に存在する仏を認識し向き合うこと」だと言いたかったのではないでしょうか。
賢治作品の中で、内面の葛藤の末に何かを得る話としては、他に「ガドルフの百合」がありますが、これも賢治の宗教への思いを知らなければ(知っていても?)理解が困難な作品です。

なお、この「マグノリアの木」は、賢治が同人誌「アザリア」に発表した断章、[峯や谷は]が元になっています。
[峯や谷は]を読まれると「マグノリアの木」の理解が深まります。


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