2000. 12.30 編集日誌 No. 92
鶴見さんは「限界芸術論」(1967年)に収録されている「芸術の発展」(1960年)の中で、限界芸術について考える手がかりとして、柳田国男、柳宗悦とともに宮沢賢治をとりあげ、「農民芸術概論」と羅須地人協会を中心に論じている。「仏教」の河合さんとの対談では、その延長線上で、鶴見さんの賢治観の発展が語られていると言える。 「限界芸術」という問題意識は、特別な才能をもった人にとっての芸術ではなく、ごく普通の人たちがある条件の下で、創りだしたり、享受したりする芸術に着目しようとするもので、「芸術と生活の境界線」にある活動や作品を問題にしている。 こうした生活と芸術のつながりを重視する視点から、1990年の対談では、賢治作品の読まれ方の推移をたどって、他の思想や文学の受容のされ方と違って、賢治は独特な形で読まれていることを鶴見さんは強調している。 日本での思想や文学の流行の変遷は、「いままでの全部をご破算にして、-----新しい幕あけで全然違う思想が流行してきて、批評の基準もそこでがらっと」変わってといったことを繰り返しているが、宮沢賢治の死後に「受け手の間で成長してきた賢治の文学」は、そういうのとは違うものだと鶴見さんは言う。そういう思想や文学の流行のような現象とは違って、「暮らしのなかに入って、読み手の生活の質がそれによって豊かになるという、そういう文学」だ。こうした文学のあり方は、戦前に石橋湛山が提唱し、戦後、伊藤整と竹内好によって掘り起こされた「国民文学」という考え方にかなうものだと鶴見さんは言う。「イギリスにとってのディケンズとか、フランスにとってのヴィクトル・ユゴー、ロシアにとってのプーシキンのような作家」の文学がそれに当たる。 賢治が生きている間は、十二、三人だけが賢治文学を認めていたのが、その後、次第に読者が増えて、戦争中は戦時の日本文学と違う性格をもつ文学として愛読者をえて、戦後はマルクス主義者に批判されるけれど、高度成長期になってすごい数の研究書が出て、「国民文学」としての位置を占めるようになっていく。このように「時代がかわってもご破算で願いましては、とならない」のが、宮沢賢治の面白いところだ。むしろ「世界の同時代性のなかで、世界が必要とする文学」であることがはっきりしてきた。 そして、「とにかく宮沢賢治を考えていくと、まだいろいろなものが出てくる可能性を感じさせますね。驚くべきことに、どんどん宮沢賢治自身が成長していくんです。」と、自分の中の賢治について鶴見さんは語っている。対談の終りに近い部分では「宮沢賢治には未来があります。どういうふうに宮沢賢治が成長するかわからないんですよ。」と、若者の未来について語るような具合になっている。 どうして、こういうことが起きえたのか、この対談の中では十分に語られていないが、賢治の生活と芸術の関係にヒントがあると鶴見さんは考えているようだ。賢治にとって、芸術は生活の「倍音」なのだと鶴見さんは言う。 河合さんは、賢治の言う「修羅」がすごく面白いと語っている。「修羅は人間より一段低い」、「上に行っていない」で「地下のほうに行っている」ために「深層から見る」というすごさが出てくるという。 「国民文学」という言い方が適切かどうかは別にして、この言葉で鶴見さんが語っていることは、「宮沢賢治の宇宙」の運営を通じて、私たちが感じてきたこととよく合致するように思える。 2000. 11.30 編集日誌 No. 91
これに類する猫又の話が、賢治の「注文の多い料理店」の背景にあるのではないか と以前から考えていた。兼好法師が記しているのは京都のことだが、「奥山に猫また がいて人を食う」という話は、さまざまな形の民話として各地方に伝わっている。そ ういうもののどれかを賢治は聞いていて、それが種子となって「注文の多い料理店」 が生まれたのではないか。そう思って、東北に伝わる猫又の出てくる昔話を調べたこ とがあるが、どうもピンとくるものが見つからなかった。 最近、出版された河合隼雄さんの「猫だましい」(新潮社)には「宮沢賢治の猫」と いう章の前に「日本昔話の中の猫」という章があり、河合さんは「猫又屋敷」の話に 賢治の「注文の多い料理店」との類似性を感じると書いてあった。 これは、下女が猫をかわいがっていたが、奥さんにいじめられて猫がいなくなって いまい、下女が九州の山の中に猫を探しに行く話だ。下女が山の中の立派な家に泊め てもらうと、隣の部屋から話声がする。唐紙を少しあけて覗くと、二人の美女の姿の 猫が寝ていて、「今日来た女はかわいがった猫を訪ねてきたそうだ。だからかみつい てはいけない」などと言っているのが聞こえ、恐ろしくなるという場面がある。この 恐ろしさが、「注文の多い料理店」に似ていると、河合さんは感じたようだ。 しかし、もっと「注文の多い料理店」に近い、猫又の昔話がありそうにも思える。 2000. 11.6 編集日誌 No. 90
宮沢賢治が「春と修羅」を出版した時、この詩集の出版を引き受けた出版社はまと もに販売する気がなかったようで、大部分が神田の古本屋街の店頭に並ぶことになっ た。「春と修羅」は当時はほとんど無視された訳だが、たまたまみつけて「これはす ごい」と感じた人が何人かいた。その一人が黄エイさんだったのだ。詩人は署名がな くても誰の作品かわかる詩を書かなくてはならないという考え方を黄エイさんはもっ ているが、「春と修羅」を読んで「この人は署名がなくてもわかる詩を作っている」 と感じ、会ってみたいと思った。 それは、5年後の1929年に実現した。士官学校の卒業旅行で花巻を訪れた時に、区 隊長に外出許可をもらって、賢治の家を訪ねたのだ。賢治は病床に伏している時だっ たが、とりついでもらうと賢治は黄エイさんの名前を知っていて、招き入れてくれた 。賢治の枕もとで、1時間ほど話をし、話題は主に日蓮宗のことだったと言う。 黄エイさんは94歳になると言うが、お元気なようで、青春時代の日本での思い出を 本にして出版したいと書いている。「謝々! 宮沢賢治」(河出書房新社)を書いた宮 沢賢治研究者の王敏さんは、四川外語学院での黄エイさんの教え子だ。 2000. 10.27 編集日誌 No. 89
訃報を聞いて、高木さんがガンの治療を受けながら、病床で執筆した「市民科学者 として生きる」(岩波新書)を読んだ。この本で高木さんは自らの生涯を振り返って、 市民科学者としての生き方がどのようにして形成されたかを書き残している。 これを読むと、敗戦と60年代後半の学園闘争という時代が大きく動いた節目が、高 木さんの自己形成においても重要な意味をもってることがわかる。1945年の敗戦の時 には、高木さんは7歳だったが、大人たちの言うことがいっぺんに変わってしまった ために強い不信の念をもった。この経験をもとにして「国家とか学校とか上から下り てくるようなものは信用するな、大人の言うこともいつ変わるかもわからない、安易 に信用しないことにしよう、自分で考え、自分の行動に責任をもとう」といった姿勢 ができてきたという。この敗戦の経験が、その後の高木さんの生き方のバックボーン をつくったことになる。 日本の経済が復興に向かい、科学技術に大きな期待が寄せられる状況の下で、高木 さんは核化学を専攻し、原子炉を建設中の日本原子力事業に就職する。やがて、放射 性物質の挙動は思って以上に複雑でわからないことが多いのに、そうした点をつきつ めるのを異端視する企業の体質に不満をもつようになり、東大原子核研究所に移る。 その後、都立大学に助教授として移ったばかりの時に、都立大学にも学園闘争の波が 波及する。高木さんは学生たちが問いかけているのは、学問や科学のあり方そのもの だという意識が強かったので、「どう封鎖を解除するか」という技術論に終始する教 授会に嫌気がさして、造反教官という立場をとるようになる。 そして、アカデミックな世界に背を向けて、それからいったいどう生きるのかと迷 っている時に、大事な指針となったのが、宮沢賢治の言葉なのだという。都立大学の 同僚だった独文学者の菅谷規矩雄さんに進められて賢治をよく読むようになり、羅須 地人協会をはじめた頃の賢治の「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわ れわれのものにできるか」という言葉に出会い、強い衝撃を受けたのだ。この羅須地 人協会への賢治の取り組みの姿勢に励まされて、高木さんは「職業科学者は一度亡び ねばならぬ」という想いに達し、大学を去って、在野の科学者として生きる道を選ぶ 決心をした。 そうした生き方がやがて、原子力資料情報室を中心とした活動という形をとるよう になった。そして、晩年の高木学校の構想にも、羅須地人協会のイメージが投影され ているようだ。 晩年の高木さんは、時代が大きく転換するもうひとつの大きな節目に入っているこ とを感じていたに違いない。しかし、この節目の時期を通じて新しい局面を開いてい く仕事は次の世代に託さなければならないと考えていた。「グスコーブドリの伝記」 の最後の火山を爆発させて飢饉を防ぐために若いブドリが自分の命を犠牲にするとい う部分を書きかえて、「ブドリが生き残りペンネンナームが命を賭けるシナリオへと 転換させたい」と書いたのは、高木さんのそういう想いを示している。 2000. 10.5 編集日誌 No. 88
私たちも「宮沢賢治の宇宙」の「時空・Ver2」を書くために、やはり「序」を中心 にして「春と修羅」について突き詰めて考える仕事をした後だったので、先端的な作 品を描いてきた画家がどう読み、どう考えたかは、大きな関心事だった。「時空・Ve r2」を準備する際に「春と修羅・序」で賢治が何を言おうとしたのかという点につい て本格的な考察はないか探してみたのだが、めぼしいものを見つけることができなか った。迂闊にも、宇佐美さんの「心象芸術論」がそういう本であることを知らなかっ たのだ。 この本で宇佐美さんは「春と修羅・序」を読み込んでいき、同時代のヨーロッパ の画家(モンドリアン、カンディンスキー、クレー)や哲学者(ヴィトゲンシュタイン) の試みと賢治の模索が深く照応しているのを確認して驚いている。そして、両方に共 通する姿勢を表すのに宇佐美さんは「アンチ・リアリズム」という言葉を使っている 。 賢治のいう心象スケッチの場合、「ここで心は、直接眼に見え、直接わたくしに感 じられる、という事柄と鋭く対立」(「心象芸術論」35ページ)していて、リアリズム から遠く隔たっている。宇佐美さんのこの読み方で重要な鍵になっているのが、「春 と修羅・序」のはじめの部分に出てくる「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という表 現だ。賢治は「わたくしは、あらゆる透明な幽霊の複合体でもある」と言っているの だ。「透明な幽霊」というのは直接眼に見えない何かで、「わたくしといふ現象」を 支える「仮定された」前提が揺らぐ時に、「透明な幽霊」が「感官の外から」からや ってくる。「春と修羅・序」で「(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるも の)」と書かれている、「わたくしと明滅し」いっせいに感応状態になる「みんな」 とは「透明な幽霊の複合体」なのだと宇佐美さんは言う。こういうふうに「みんな」 が同時に感じ、声をあげるのが、賢治の心象スケッチだ。 現代のアンチ・リアリズムの絵画の原点となっているセザンヌの試みは「春と修羅 ・序」と重ね合わせると、西欧リアリズムの知覚を規定するパースペクティブ(=一点 透視画法あるいは遠近法)から「みんな」を解放し、パースペクティブに支配されな い「もの」として明滅させようとしたのだと言える。セザンヌがサン・ビクトワール 山を何百回も描いているうちに、「山や木や岩が空間のおさまるべき位置から、色や 形の独立した単位=タッチとなってぬけだし-----山や木や岩はセザンヌとの交感のな かで半ば幽霊のようになり、空間の手ごたえのようなものに変わっていく」(107ペー ジ)と宇佐美さんは書く。 こうした宇佐美さんの「春と修羅・序」の読みこみ方からは教えられる点が多く、 また、この難解な序詩で賢治が何を問題にしようとしたのかという点についての理解 は、「時空・Ver2」に書いたことと大筋において一致していて、勇気づけらる思いが した。 2000. 9.20 編集日誌 No. 87
この雑誌にMarianne さんは、賢治の詩の中から「永訣の朝」、「松の針」、「無 声慟哭」の3編を選んで翻訳している。 "The Morning of our Eternal Good-bye"の冒頭の部分はづきのようになっている 。 Before the day ends You are going far away for ever, my sister. Sleet is falling. Outside is strangely bright. (Fetch me some snow, Kenji.) From sinister and faint clouds, Thick sleet is falling. (Fetch me some snow, Kenji.) 2000. 9.11 編集日誌 No. 86
2000. 8.10 編集日誌 No. 85
佐野清彦さんも指摘するように、賢治の作品の中に響く音は、こうした問題を考えるための豊かな手がかりを提供してくれる。たとえば「風の又三郎」では、「どっどど どどうど どどうど どどう、 青いくるみも吹きとばせ-----」という歌ではじまり、「谷川の岸に小さな学校がありました。」という一文の後の学校の周囲の様子の描写には、「運動場の隅にはごぼごぼつめたい水を噴く岩穴もあったのです。」と水の音が聞こえ、この山村の学校の環境がありありと伝わってくる。「風の又三郎」の歌は、いったいどういう旋律で歌われればいいのかわからないが、歌が歌として孤立してしまうのではなく、風と響きあうような旋律でなければいけないのだろう。佐野さんの本を読んでやや気がかりだったのは、自然のノイズと重なり合う楽音を重視する芸能のあり方を追っていく際に、日本に特殊な美意識だという捉え方に傾く点だった。西洋音楽には長い間、楽音を自然のノイズから切り離そうとする志向が強かったのは確かだが、非西洋地域では、自然音との響き合いに敏感な音楽文化は珍しくないのではないか。そうしたさまざまな音に対する感じ方との関係で、日本の芸能の音を考えた方が豊かな可能性が見えてくるのではないと感じたのだ。 そんなことを思っていたこともあって、"Music Grooves"(1994,The University ofChicago Press)の中のSteven Felt の"Lift-up-over Sounding : Getting into Kaluli Groove"を読んで、驚くとともに深い感銘を受けた。Steven Feltは、パプア・ニューギニアのボサビ山の斜面に住むカルリの人たちの音楽を研究する民族音楽学者で、学位論文をもとにした「鳥になった少年----カルリ社会における音・神話・象徴」(1988年、平凡社)が邦訳されている。Feltはジャズの演奏家でもあり、カルリの人たちのところに出かける気になったのは、そこでフィールドワークをしていたSchieffelinが録音してきたテープを聴いて感動し、こういう歌をつくるのはどういう人なのかを知りたくなったからだという。"Music Grooves"というタイトルのgrooveはジャズで競演者どうしの気分が合ってのっていく感じを表す言葉で、この本ではCharles KeilとSteven Feltの二人の異端的な民族音楽学者がエッセイと対談を通じて、さまざまな地域の音楽におけるgroovesについて探ろうしている。 Feltのエッセイの表題の"Lift-up-over Sounding "は、カルリの人たちがgrooveする、音と音の関係を表すdulugu ganalanという言葉を英訳したものだ。従来の民族音楽学者は、無文字社会の人たちは音楽理論をもたないと論じてきたが、Feltはそんな筈はないと考えて、カルリの人たちが自分たちの音楽の特徴を捉えるはっきりした概念をもっていることを探りだしている。その核心をなすのがdulugu ganalanだという。dulugu ganalanは、歌と歌の関係、楽器と楽器の関係、鳥の鳴き声や川の音など自然音どうしの関係などさまざまな音に用いられが、歌と歌の関係で言うと、ユニゾンで合唱するのと対照的に、dulugu ganalanはたがいのタイミングがずれている。dulugu ganalanという言葉で表されるgroove感は、音と音の位相がバラバラでありながら共働するといったもののようだ。 興味深いのは、このdulugu ganalanの美学が、カルリの人たちが生活する熱帯雨林の音環境と不可分な関係にあるということだ。熱帯雨林は、高木が樹冠をつくりその下に層に別の樹種が葉が繁るという具合に何層にもなり蔓性の植物も多いため、見通しが悪い。そうした熱帯雨林の中で生活するには、音で獲物や危険な動物の位置や動きを判断しなければならず、鋭敏な聴覚を身につけるようになる。そして、カルリの人たちは、死んだ人は熱帯雨林の裏側に住み鳥の姿でこちら側に現れると考えているので、ある種の鳥の声のうちに死んだ人からのメッセージを聞き取る。 そこで、さまざまな生き物の音や声が多層的に響き合う熱帯雨林の音環境は、カルリの人たちに郷愁や懐かしい想いを呼び起こすのだいう。また、旅から戻った人たちは、慣れ親しんだ熱帯雨林の中で歌い、自然音と歌がdulugu ganalanの効果をつくりだすのを聴き、自分が熱帯雨林の音の世界の一部分だと感じるとくつろいだ心地になる。 夜になって真っ暗なロングハウスの中で行われる儀礼の際に、dulugu ganalanの美学の下に歌われる歌や楽器の音は、熱帯雨林の音環境の感じを呼びさまし、その場に集まった人たちは死者たちが近くにやってきているようなもの悲しく懐かしい気分になるのだ。 また、Feltの議論でとても面白いのは、位相がバラバラでありながら共働的な関係をつくり出すdulugu ganalanの美学は、カルリの人たちの平等主義的な社会構造と対応しているという指摘である。カルリの社会は、誰か強力なリーダーがいて皆がそれに従うというヒエラルヒー型ではない。それぞれがバラバラに自己主張をするようでありながら、かなずしも無秩序という訳ではなく、共働的な関係が生まれる、アナキーな秩序である。つまり、dulugu ganalanの美学は、指揮者を頂点とするヒエラルヒー的な秩序と対照的なのだ。 このように辿ってみると、自然音や「どっどど どどうど どどうど どどう」といったオノマトペが響きわたる賢治の作品の世界は、カルリの人たちの音の世界と親しい関係にあると言えそうだ。他方で、ヨーロッパのクラシック音楽に対する敬意を抱いていたため、両者の葛藤が賢治の中で起きることになっただろう。そういう脈絡で読むと、たとえば「セロ弾きのゴーシュ」の面白い読み方ができるのではないだろうか。 2000. 7.31 編集日誌 No. 84
(高木学校の志http://cnic.jca.apc.org/takagi/kokorozasi.html) 高木さんは「宮沢賢治をめぐる冒険--水や光や風のエコロジー」という優れた賢治論を書いているが、人生の残り少ない時間を何に使うかを考える際に、ふただび賢治に立ち戻っている訳だ。 「グスコーブドリの伝記」について、「なぜ、ペンネン技師でなくブドリが命を賭けなくてはならなかったのか。」という疑問が残ると言い、「私は、ブドリが生き残り、ペンネンナームが命を賭けるシナリオへと転換させたいと思う。」と高木さんは書いている。 言うまでもなく、高木学校の若者たちが生き残るブドリになって欲しいと呼びかけているのだ。 2000. 7.14 編集日誌 No. 83
この本は、カルフォルニアの北西部のマトール(Mattole)川に生息する固有種の鮭を蘇らせるという課題を執拗に追究した環境再生運動の担い手の一人である著者が、鮭との深い関わりを通じて何を学んできたかを、自らの体験と深層意識へ内省を踏まえて記したものだ。 アメリカ大陸の北西部の川は季節ごとにたくさんの鮭が遡って産卵し、この豊富な食料に恵まれているために、古くからネイティブ・アメリカンのさまざまなグループが川沿いに住み着いていた。そして、鮭は自分の産まれた川に戻ってきて産卵する習性をもつため、長い時間の間に河川ごとに棲息する鮭の違いができ、河川ごとに固有種ができていた。白人が西部に進出しダム建設などが行われ河川の自然は失われていったものの、養殖によって鮭漁は維持された。しかし、河川ごとに固有の鮭はしだいに失われていった。ところが、マトール川の流域には、この川に固有の鮭が棲息していることがわかり、この鮭が活発に繁殖できる環境をとり戻す活動をフリーマン・ハウスたちがはじめ、ねばり強い活動を積み上げていった。流域の原生林の保護、土壌流出や河川の水温上昇の原因となる森林の乱伐の抑制など、鮭の繁殖を困難にしている要因を調べそれを除去していくために、河川流域の住民たちの間で地道な議論を重ねていった。 カルフォルニア州は電気自動車などZEV(Zero Emission Vehicle)普及の目標設定など先行的な環境政策で知られているが、このマトール川流域再生評議会の活動はカルフォルニア州での環境問題に対する取り組みのひとつの原点になっているのだと思われる。 そして、フリーマン・ハウスの"Totem Salmon"を読むと、マトール川流域での活動はイーハトーヴォにおける賢治の模索とつながり合うところが多いこと気づく。直接的なつながりのひとつは、マトール川流域の取り組みに強い影響力をもつ人物の中にGary Snyder がいるという点がある。Gary Snyderは、編集日誌でもしはしば言及しているが、「春と修羅」など賢治の詩の翻訳者であり、自然に対する科学的な考察と詩的、神話的イマジネーションが重なり合う思考には、賢治と共通する所が多い。それだけでなく、ネイティブ・アメリカンの長い生活の歴史をもつマトール川流域と縄文人や蝦夷の生活史が積み重なっている東北地方とは、どちらも鮭とドングリを主な食料とする類似した風土をもっている。 さらに、フリーマン・ハウスの鮭との関わり方は、ある土地に共に棲む生き物どうしの倫理の探究とでもいうべきものであり、この点で賢治の思考と交錯しあう。フリーマン・ハウスがマトール川の鮭の再生に取り組むようになった背景には、鮭漁の漁船の船員としての仕事をしていた時の懐疑的な気持ちがある。機械的に大量に鮭を捕獲する漁業では、自分が生きのびるために他の種を殺すという生き物どうしの切迫した関係が感じられなくなってしまう。そういう経験があったために、マトール川に固有の鮭が棲息していることを知って、その種との自分との関わりを深くつき詰めていきたいと思うようになったのだ。 この固有の鮭が繁殖できる川の再生という課題を追究していった結果、流域全体の生態系を再生し、この土地に棲息してきたさまざまな種の複雑な相互依存関係を蘇られせていくというテーマに行き着いた。そして、この生命の相互依存関係の中に組み入れられた一員としての人間のあり方が再発見されるようになっていった。この到達点も、賢治のめざした所と近いように思われる。 2000. 6.28 編集日誌 No. 82
このプログラムは、10代の少年、少女たちの表現力を高めるとともに、環境に対する関心を促すことを目的にしているそうで、インストラクターが渡した参考資料の中に私たちのサイトの"The Origin of the Deer Dance"が含まれていたらしい。 ブロンクスの高校生が、「鹿踊りのはじまり」について、どんなことを考えたのか、知りたいところだ。 2000. 6.20 編集日誌 No. 81
それぞれの作家の文章を、さまざまな視線の関係や視線の移動の仕方に着目して分析するのは、文芸批評の理論の構築をめざした吉本さんの基本的な方法のひとつであり、吉本さんの「宮沢賢治」(ちくま文庫)の中にも「第3章 さまざまな視線」という章がある。 この中では、「やまなし」の蟹の子どもの視線から見た川の中の光景や「朝の就ての童話的構図」の蟻の視線、「水仙月の四日」の雪童子の空から街を見おろす視点などの例が出てくる。そして、どの作品でも、いくつかの視線の関係が自在に転変するために、賢治の文章は生き生きとしたものになる。 こうした「自在な視線の伸び縮み」と、「自在に境界をとりはらう」かのように日常の空間からスムーズに異空間へ入り込んでいく賢治作品の特質とが不可分の関係にあり、この点に宮沢賢治という存在の核心があると吉本さんは考えている。たとえば、「よだかの星」の最後の部分で、太陽に向かってとんでいこうとして、野原の上に落ちて意識が薄れたよだかは、「そしてまるで夢を見てゐるやうでした。からだがすうっと赤や黄の星のあひだをのぼって行ったり、どこまでも風に飛ばされたり、又鷹が来てからだをつかんだりしたやうでした。」といった具合に、異界に入りこんでいく。これは目覚めた意識状態で風景と心象を見ている視線から、風景と心象が狭まって、心象そのものが意識の対象になる夢や幻覚の視線への移行がとてもスムーズに描かれている例だ。 たしかに、吉本さんが「自在な視線の伸び縮み」という言葉で語ろうとしたあたりには、賢治の資質や作品の核心があると思われ、このあたりにさまざまな角度から踏み入ってみる必要がある。 吉本さんが「自在な視線の伸び縮み」と言っているのは、次のように言い換えてみることもできる。渾沌とした状態から秩序から生成させるにはある視点(枠組み)が必要だが、その視点はきわめて多様である。賢治は、そういう多様性にきわめて敏感な人で、さまざまな視点の間を移動する自在な感覚を身につけていたということである(詳しくは「時空Ver.2」http://www.g-search.or.jp/kenji/works/jikuu.htmlを参照)。これは、市場の騒々しさの中からいろんな声を聞き取る、M.バフチンの言うポリフォニック(多声的)な聴き方とも通じるのではないだろうか。等々------いろんな踏み入り方があってよい。 ところで、吉本さんの毎日新聞の文章に戻ると、(上)の結びの部分では、賢治の作品が翻訳されて国際的に読まれるようになっている背景は、漱石や芥川の場合とは少し違うようだとして、つぎのように書いてある。「宗教的な情操は仏教的であり、作品の倫理も自然観も仏教的だと言えるのに、熟した作品の全体性はエキゾチズムの要素を特徴にしているのではなく、一つの宇宙性が国際的に通用するのではないだろうか。」 賢治作品の「一つの宇宙性」が世界に訴える力をもつのは、私たちも実感してきたことだが、文芸批評の普遍的な理論の構築の試みを長年重ねてきた吉本さんが言ってくれるのは、それなりの重みがある。 2000. 5.30 編集日誌 No. 80
「狼森と笊森、盗森」は、森の近くに、どこからかやってきた農民たちが定住して集落をつくる話だ。この話に出てくる狼森、笊森、黒坂森、盗森は小岩井農場の近くに実際にある森の名前で、これらの森の近くの古い集落というと姥屋敷なので、この話のモデルになっているのは姥屋敷ではないかと言われている。そして、姥屋敷では最近まで焼畑農耕が続けられてきたという。「狼森と笊森、盗森」の話では描かれている農法は焼畑とは違うようだが、農民たちが播くのは、ソバ、ヒエ、アワなど焼畑で栽培される穀物と共通している。また、北上山地では、20世紀初頭までは焼畑がさかんに行われていたといい、イーハトーブと焼畑文化は密接なつながりがあると思われる。 焼畑農耕というと日本列島では過去のものとなっていると思いがちだが、じつは、宮崎県の椎葉村にはずっと焼畑を続けている人がいる。その椎葉クニ子さんから聞いた話を農学者の佐々木章さんがまとめた「おばあさんの山里日記」(葦書房)という本が出版されている。これを読むと、焼畑の生活がどのようなものか、生き生きと伝わってきてとても感慨ふかい。 焼畑は森林を伐採して木を乾燥させた後火入れをして焼いて畑地をつくり、最初にソバを播き、2年目にはヒエ、アワ、3年目には小豆、4年目には大豆といったようにそれぞれの地方でだいたい決まったサイクルで作物を育てる。そして4,5年で地力が衰えると、別の場所に畑地を移し、放棄されたところは森林にもどっていく。そして、20〜30年たつと一巡りして、育った森をもう一度、畑にする。生産性は低いが、化学肥料や農薬を使わずに厳しい山村の気候に合った作物を育てることができる農法である。 椎葉さんが語った話の記録を読んでいくと、焼畑の生活は稲作農耕と較べて、自然に逆らわず、生態系の仕組みを活かしていく考え方が強いことがわかる。ヒエやアワでも、もともとたくさんの品種が伝わっていて、いろいろな品種をいっしょに播いていたようで、気象条件が変動してもある程度の収穫を維持できる工夫がされていたようだ。 椎葉さんの話の中でとても大事な点のひとつは、焼畑をずっと続けてきたのは、先祖からずっと伝わってきた種を途絶えさせないためだと語っていることだ。椎葉さんが播いているソバやヒエ、アワ、小豆、大豆は、代々にわたってこの椎葉村の焼畑で育てられてきたものであり、それだけに風土に合っている。 椎葉さんが語っているような、その土地の風土に合った種を伝えていく必要があるという考え方が、有機農業の再生の試みの中でも、再認識されるようになっているようだ。 2000. 5.20 編集日誌 No. 79
逆に宮沢賢治はニーチェを読んでいたかと言うと、多分、読んでいたと思われる。というのは、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」には、ニーチェの名前が出てくるのだ。 前に編集日誌No.60で書いたように、この話は、「グスコーブドリの伝記」がA面だとすると、そのB面のような関係にある。飢饉で両親が死んでしまうというはじまりは同じだが、ブドリは苦労の末にイーハトーブ火山局の技師になるのに対して、ネネムは出世してばけもの世界裁判長になる。ブドリの方には、賢治の生真面目な面が投影されているのに対して、ネネムには、滑稽な話をはじめると羽目をはずす賢治のもうひとつの面が投影されている。ばけもの世界裁判長になったネネムは奇知にとんだ裁判で名声をあげるが、調子に乗りすぎて、よろけてばけものの世界から人間の世界に転落してしまう。このお調子者のネネムを判事が「実にペンネンネンネンネン・ネネム裁判長は超怪である。私はニイチャの哲学が恐らくは裁判長から暗示を受けているものであると主張する。」などと言ってもちあげるのだ。「超怪」という言葉も、ニーチェの「超人」をもじったものだと思われ、ニーチェの自己陶酔の傾向と慢心したネネムを賢治は重ね合わせて見せている。 この箇所では、賢治はニーチェをからかっていることになるが、もし賢治がニーチェの著作をよく読んだとすれば、からかうだけではすませなくなっただろう。というのは、ニーチェは、理知的な秩序(コスモス)を偏重するヨーロッパの伝統に立ち向かい、自然や人間の心の深部のカオス的な力がもつ創造性を重視しようとした訳だが、賢治にとってもカオス的なものが大きな意味をもっていたからだ。近年の複雑系研究で「カオスの縁(ふち)」いう言葉がキーワードのひとつになっているが、これを借用すれば、ニーチェも賢治も「ぎりぎりのカオスの縁を歩んだ人」だと言うこともできるだろう。そして、晩年のニーチェはカオスの海に飲み込まれてしまった。 「風の又三郎」の村の子どもたちは、自然の荒々しいカオス的な力と結びついた又三郎に対して、恐れと憧れが入れ混じった複雑な感情をもっている。遠くからやって来て再び遠い所へ去っていった高田三郎と又三郎を重ねあわせることによって、賢治は、村の子どもたちの心をときめかす、こうした微妙な感情を見事に描き出している。(詳しくは「『種山ケ原』、『原体剣舞連』から『風の又三郎』へ」を参照してください。) 2000. 4.28 編集日誌 No. 78
賢治を韓国の人たちに紹介するには、作品を韓国語訳することが重要だとLiuさんは考えて、このところ作品の翻訳を精力的に進め、多数の翻訳を完成してウェブ上に掲載しているという。物語では「銀河鉄道の夜」「セロ弾きのゴーシュ」「注文の多い料理店」「よだかの星」「双子の星」、詩では「春と修羅・序」「春と修羅」「屈折率」などをすでに翻訳している。 素晴らしいことに、Liuさん訳の「銀河鉄道の夜」を出版したいという出版社からの申し入れがあり、その作業も進行中だという。 Liuさんは、さらに翻訳の作業を進めようとしているが、詩の翻訳は言葉の意味を調べたりするのに大変な労力を必要とする。それで、Liuさんの翻訳の作業を助ける日本人の友人が欲しいのだが、そういう役割を果たしてくれる人はいないだろうかとメールに書かれている。編集部でも、できる限るLiuさんの手助けをしたいと考えているが、他に、Liuさんの翻訳を手伝いたいという方がいらしゃれば、Liuさんjuwhan@hanbat.cnu.ac.krにメールを出してください。 2000. 4.11 編集日誌 No. 77
北からは、ロシアのペテルブルグのアリナさんという大学生からの便りが届いた。アリナさんは、宮沢賢治の作品に関心をもち「銀河鉄道の夜」をロシア語に翻訳する仕事に着手し、賢治の用語とロシア語の対照表を自分でつくりはじめているという。両親の住むノボジビリスクからペテルブルグまでなんと50時間の鉄道の旅をした、とメールには書いてある。ロシアの平原を鉄道で旅しながら「銀河鉄道の夜」を読んだら、どんな感じだろうか。
南からは、ニュージーランドで日本語を教えているTeradaさんという方が、「宮沢賢治の宇宙」と"The World of Kenji Miyaawa"を教材として使いたいというメールをくださった。 2000. 3.28 編集日誌 No. 76
小渕さんはさておいて、心の深層についての洞察力をもつ河合さんが宮沢賢治をどう読むかというのは、とても興味深いところだ。しかし、河合さんはところどころで賢治について書いたり話したりしているものの、本格的に掘り下げた賢治論はまだ書いていないのではないだろうか。 河合さんと「銀河鉄道の夜」についても、妙な言い方だが、今のところ、河合さんが「銀河鉄道の夜」について書いたものを読むより、河合さんの本格的な著作と「銀河鉄道の夜」を関連づけて読んでみる方が面白い発見があるように思う。 たとえば河合さんには、「ユング派心理学と仏教」(岩波書店)という労作がある。 この本によると、河合さんはチューリッヒのユング研究所に出かけてユング派の心理学を学び、1965年に帰国してから心理療法をはじめたが、もともとはキリスト教に対する関心の方が強く、仏教に対しては拒絶意識をもっていた。しかし、心理療法の仕事をしているうちに、自分のしていることは何なのかを考えるために、仏教の教えが役立つことに気づくようになったという。 最初のころはクライエントを「箱庭療法で治す」といった考えに陥ることがあったが、そういう意識はクライエントとの関係をこわしてしまうことを知って、「心理療法で誰かを『治す』ことなどできない」とはっきり考えるようになったことに、そのきっかけはある。つまり、「心理療法で大切なことは、二人の人間が共にそこに『いる』こと」であり、「その二人の間は『治す人』と『治される人』として区別されるべきでは」ない。「二人でそこに『いる』間に、一般に『治る』と言われている現象が副次的に生じることが多い」(P.53〜54)というのだとう。こういう人間どうしのつながりについて洞察するのに、華厳経などの大乗仏教から河合さんは大事な示唆を得た。 そして、仏教から学びながらクライエントと関わる経験を重ねるうちに、「私は今はクライエントの症状がなくなったり、問題が解消したりしたとき、やはり喜びますが、根本的には、解消するもよく、解消せぬもよし、という態度を崩さずにおれるように」(P.197)なったと河合さんは書いている。
こういう表現を読んで連想が「銀河鉄道の夜」におよび、北のはての海で溺れて少年、少女といっしょに銀河鉄道に乗ってきた家庭教師や、彼の話に耳を傾けた燈台守のことを想いおこしたとしても不自然ではないだろう。家庭教師の青年は、客船が沈没しかかった大混乱のなかで、他の子供たちを押しのけてふたりを助けるより、そのまま子供たちが死んだ母親のところに行くのにいっしょについていくことを選んだ。その話を聞いて燈台守は、「なにがしあわせかわからないです。ほんたうにどんなにつらいことでもそれがたゞしいみちを進む中でのできごとなら峠の上り下りもみんなほんたうの幸福に近づく一あしづつですから。」となぐさめる。目立たない人物だが、銀河の一庶民である燈台守は、苦難に充ちた辛い体験を語る青年の話のよい聞き手であり、心のこもった言葉で彼の話を受けとめてにいる。この燈台守は、河合さんの言う、クライエントの話を聞く治療者にあたる役目を誠実に果たしている。 2000. 2.29 編集日誌 No. 75
その後、Urbanさんとのメール・アドレスがわかり、問い合わせたところ返信をくださり、面白い事実がわかった。Urbanさんが見たのは、『銀河鉄道の夜』のアニメ・フィルムは日本語版なのだが、動画を映すのとは別のもうひとつのプロジェクターを使って会話の部分の英訳を映すという方法で上映されたというのだ。これは、1980年代の地方映画館でのことだとそうだ。 つまり、『銀河鉄道の夜』のアニメ・フィルムで英語の字幕が入った英語版というのはやはり製作されていないようだが、劇場上映する時に、英語圏の人にストリーがかわる工夫がされていたことがわかる。『銀河鉄道の夜』のアニメを多くの人にみてもらうために、こうした手仕事的な工夫を凝らしたのはどういう人たちだったのだろうか。これも興味深い問題だ。 2000. 2.9 編集日誌 No. 74
その中に、つぎのような部分があった。「賢治の『農民芸術概論要綱』にある一節から、八重山の芸能に確かな光が当てられた感がいたします。この様な光を、まともにお受けするには、いささか頼りない想いですが、八重山に住む人々が、常に心して励む事だと思います。」 これは、編集日誌でNo. 72のつぎの部分に対する、潮平さんの応答だと思われる。 「『曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた/そこには芸術も宗教もあった/いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである-----』と賢治は『農民芸術概論綱要』に書いている。こうした考察を読むと、もし賢治が沖縄の文化について具体的に知る機会があったら、沖縄に強い関心をもったに違いないと思わずにいられない。『曾てわれらの師父たちは---』と言っているような労働と芸術、宗教の未分化な重なり合いが、沖縄では今も生きた力をもっているからだ。」さらに潮平さんは、「何時も、繰り返し考える事の一つとして」「何故、八重山に、この様に、多くの民謡と舞踊が、生まれ残されたのでしょうか。」と問いかけられている。そして、潮平さんが出版に関与された「八重山ユンタ集」(浦原啓作著、音楽の友社)に寄せられた小泉文夫さん(民族音楽研究者)の前書きを抜き書きしてくださ った。 「歌や踊りが好きだという点では、スペインやラテン・アメリカの人たちもそうである。古い歌をたくさん覚えているという点では、ブルガリアの農村と共通しているかも知れない。だが沖縄のように、どの島々でもそれぞれに実に多くの音楽家がいて、古い歌をうたうばかりでなく、新しい歌を創り、新しい曲を考えだして、自分たちの思いや感情を生き生きと表現する人々を私は他に知らない。 八重山は特に歌や芸能が豊富だ。しかもその一つ一つが、永い伝承の間に洗練され推敲されて、民俗音楽としてほとんど完成された高さにある。それでもなお、新しい歌が島の人びとによって創られている。私の経験では、一老人が一つの歌を作ってから、何回も書きかえ、三味線の手を工夫し、節回しを考え直し、数年の歳月が流れた。それでもまだその老人は人びとの前にその新作を発表するのをためらっていた。沖縄の民謡の一つ一つが、どんなに貴重な存在であり、決してして忘れてならない財産であるかを思い知らされた。」 2000. 1.28 編集日誌 No. 73
ゴーシュが「町の活動写真館のセロを弾く係り」だったこと、ここの楽士たちの金星音楽団の演奏会は「公会堂」で開かれることに佐藤さんは着目して、「セロ弾きのゴーシュ」はどこの町をモデルにしているのかを推理している。 佐藤さんの考察についてはやがて掲載するテキストを読んでいただきたいが、確かにゴーシュが「活動写真館」つまり映画館の楽士であることに注目すると、ゴーシュについてよくわかる点がありそうだ。 言うまでもなく、この活動写真館で上映されるのは無声映画で、弁士の語りが入り、楽士たちが音楽や音響効果を担当するわけだ。宮沢清六さんの「兄のトランク」(ちくま文庫)に収録されている「映画についての断章」を読むと、当時の花巻や盛岡の活動写真館の様子がわかる。清六さんは、4歳くらいの頃に、8歳年上の兄の賢治と一緒に花巻の朝日座という芝居小屋ではじめて活動写真を見て、「どこかから湧き出して来る不思議な音」に憑かれてしまったのを覚えている。この音は「舞台の横の格子の中で、クラリネットと小太鼓とトランペットぐらいの楽器で、それもあまり上手で なく、『天然の美』などの曲を静かに演奏していた」のだろうと清六さんは書いている。 「セロ弾きのゴーシュ」には、弁士は出てこないが、映画を見て帰ってきた賢治が清六さんに話したという弁士についての面白い話が「映画についての断章」には書かれている。 ガラガラな映画館でやる気をなくした弁士がいい加減なことを喋っていたら、酔った客が「おい。弁士い。しっかりやれい。下手糞弁士い!」とやじった。これを聞いて弁士は「我が輩はこれでも芸術家だ。かりそめにも一人の芸術家に対して無礼な言辞を弄する奴などに説明してやれない。」と本気でおこって沈黙してしまい、みんなしぃんと変な映画を見ていたのだという。この酔客と弁士のやりとりの方が映画より面白かったという。賢治の物語に出てきそうな場面だ。 ゴーシュは演奏会のアンコールに「インドの虎狩」という三毛猫をあわてさせた変な曲を弾くが、この曲についても、ゴーシュが活動写真館の楽士として、効果音の演奏もしていただろうと考えると納得がいきやすくなる。 2000. 1.28 編集日誌 No. 72
こうした考察を読むと、もし賢治が沖縄の文化について具体的に知る機会があったら、沖縄に強い関心をもったに違いないと思わずにいられない。「曾てわれらの師父たちは---」と言っているような労働と芸術、宗教の未分化な重なり合いが、沖縄では今も生きた力をもっているからだ。 前号のNews Mailに情報を掲載した「おきなわ八重山芸能選」は、代表的な八重山舞踊をたくさん見ることができるめったにない機会だったが、この公演からも、八重山の芸能が祭や仕事と不可分なものとして、生き生きとした力を保ちつづけていることがよくわかった。 八重山舞踊は、舞台公演のために創作されたのではなく、各地域の祭や行事の一環として伝えられてきた舞踊だ。八重山舞踊の研究所を主宰する先生たちは、各地域に伝わる舞踊を学んで、それをもとにしながら舞台舞踊になるように振つけをしている。その際にも、各地域で伝えられる舞踊の精神が大事にされている。 八重山舞踊は、女舞、男舞、若衆舞、雑踊などのパターンに分かれている。女舞は、ゆっくりした旋律とともに、スディナとカカンなどの伝統的な衣裳をつけて優美に舞う、気品にとんだ舞だ。そして、女舞の「小浜(くもぅ)節」などは、祭の時に豊饒を神に感謝する舞として奉納されるのだと言う。こうした舞と歌、音楽の澄みわたるような美は、人間の心や所作と自然が共振する中から生まれる美であり、芸術的であると同時に神々とともにある崇高さを感じさせる。 また、今回の演目の中にも、八重山舞踊と仕事のつながりの深さを再認識させるものが多かった。たとえば「苧引き(ぶうぴき)」「布晒し(ぬぬさらし)」という演目は、糸を苧麻からつくるところと織った布を海にさらして色どめをする作業を舞にしている。「苧引き」の舞には、本物の苧麻の繊維の束が使われていた。仕事の様子をかなり具象的に演じる踊りが八重山には少なくないようで、豊年祭の時には、稲作の仕事の手順がコミカルに踊られる集落もある。これは、もともと、稲の 一生を愉快に演じることで稲の魂を活気づけ、次の年も稲が健やかに育ってくれますようにと願う踊りだったのだろう。 歌や踊りは、自然や神々に何かを祈願したり、感謝をしたりする行為と結びついていることが多く、また、自然の中で植物を育て、加工する仕事には、そうした祈願や感謝が欠かせない。そう考えれば、八重山で、芸能と儀礼や祭と仕事がたがいに浸透しあって、不可分な関係にあるのは、何の不思議もないことなのがわかる。 1999. 12.20 編集日誌 No. 71
他方、前回のNews Mail に「カンボジア・心と技の染織展」とカンボジア報告会の情報を寄せてくださった森本喜久男さんのクメール伝統織物研究所は、カンボジアで長い戦乱の間に途絶えてしまった伝統的な養蚕や自然染料や織物を、村の人たちがもう一度思いだし、復活させるのをサポートする事業を続けているNGOだ。 森本さんのカンボジア報告によると、ポルポト時代に人口の3分の1位の人が殺害されてしまったために人口構成がきわめていびつで、半分が18歳以下という状態になっている。カンボジアはもともと豊かな自然と文化をもつ国で、たとえばラックの染料の美しい赤を使った伝統的な絣が農村で織られ、養蚕も東南アジアで一番さかんな国だった。しかし、若い人たちはかつての豊かな文化をほんんど知らないし、そういう文化を知っているのは、西根山の山男ならぬ70〜80歳代の老人たちなのだが、これまでは戦乱で不安な日々が続き、老人たちがそうした技術を思いだして、若い人たちに伝えようとする気力がおきる環境にはなかった。 しかし、森本さんの話では、今年になってようやく戦争も完全に終わり、カンボジアの人たちの間にようやく明るさがもどってきたという。そしてかつて絣の織物がさかんだった地方では、村の人たちが織物を復活させる動きも起きはじめ製品が市場に出まわるようなっている。といっても、もともとカンボジアでは養蚕がさかんだったのに、今は仲買人がベトナムの生糸を農村に持ち込んで織りあがった製品を市場に出すという形になっているし、染料も伝統的な自然染料はほとんどなくなって、化学染料が多くなってしまっている。 こうした中で、森本さんのクメール伝統織物研究所では、1996年から伝統的なカンボジアの養蚕を復活させるプロジェクトや植物染料による染色のワークショップを続けていて、その成果がようやくあがりはじめている。また、現状では仲買人は柄に関わりなく1枚いくらででき上がった織物を買いあげているため、織が簡単な柄しか市場に出ていないが、クメール伝統織物研究所では古い絣の布を村にもって行って織れる老人を探し出し織ってもらい、絣のレパトリーを広げていくといった地道な仕事を重ねている。 (詳しくは、クメール伝統織物研究所のサイトをご覧ください。桑の木基金のメッセージも読んでみてください。) 1999. 12.5 編集日誌 No. 70
私たちも、この「銀河鉄道の夜」の日本語版(つまり、英語などの字幕がついていないもの)のアニメのビデオをチェックしてみて、田知本さんの指摘された通りであることがわかった。さらに、タイトルも日本語の「銀河鉄道の夜」とエスペラント語の"Nokto de la Galaksia Fervojo"が併記されていることに気づいた。 Poulsonさんからのメールをよく読むと、エスペラント語の字幕がついたアニメというのは私の誤解であることがはっきりした。しかし、よくわからないのはPoulsonさんのサイトで紹介されているメールの中でMike Urban さんが言及している「銀河鉄道の夜」のアニメが、英語の字幕のついたものなのか、それとも字幕のない日本語版原作なのかという点だ。 Urbanさんはこのアニメを見たアメリカ人たちの反応について、ジョバンニとカンパネルラという名前をイタリア人だとアメリカ人は見なすのでアニメの中に出てくるエスペラント語の文字もイタリア語の方言だと思ってしまい、そのためエスペラント語を使った制作者の意図はうまく伝わらない、といったことを書いているので、英語の字幕のついたものを見ているようにも読める。 しかし、私たちが調べた限りでは、「銀河鉄道の夜」の英語版があるということは確かめられない。アメリカ人のアニメ・ファンには、字幕のない日本語のアニメを見て日本語はわからなくても楽しめる人が多いようなので、「銀河鉄道の夜」も字幕のないものを見ているのかとも思われる。(「銀河鉄道の夜」の場合、アニメを見てから英訳の本を読むこともできる。)これまでも「銀河鉄道の夜」のアニメを見て賢治作品に関心をもつようになったというメールがアメリカ人から来たりもしているので、このアニメがどういう形のものなのかは気になるところだ。それで、Poulsonさんにこの点について問い合わせるメールを書いてみたところ、Urbanさんが書いているのは英語版の「銀河鉄道の夜」のことだとPoulsonさんも思っていたというが、それが確かかどうかはわからないという返事だった。 1999. 11.27 編集日誌 No. 69
また、メールのなかで、宮沢賢治がエスペラント語に関心をもっていたというは確かなことかとPoulson さんは尋ねてきたので、賢治全集のなかにあるエスペラント語の詩の草稿をひとつ書き抜いて送った。返信で、Poulson さんは喜んでくれたが、エスペラント語としては不完全だという指摘もしてあった。 その後で、Poulson さんのサイトを見たところ、Miyazawa Kenjiという小論が書かれていて、その中には「銀河鉄道の夜」エスペラント語版の話とともに私たちとのやりとりのことも書いてあった。 1999. 11.13 編集日誌 No. 68
また、三内丸山遺跡ではイヌビエをたくさん採集して利用したことが明かになっているが、「縄文農耕再考」によると、ヒエはこうした過程を経て栽培化された日本原産の栽培植物だ、という説を阪本寧男さんが提唱している。縄文遺跡から出土する炭化したヒエの種子を時代別に較べると、後の時代になると大型化した種子が含まれるようになり、これも栽培化を示すのではないかと考えられている。こうしたことから、ヒエなどの焼畑農耕が縄文時代から始まっているという説が有力になる。そして、赤坂さんとの対談の中で、佐々木高明さんは、1950年の農業センサスによると、東北では岩手県の北上地方にヒエの産地が集中していると語っている。これも縄文以来の東北の文化要素だと言えそうし、それが岩手県に色濃いというのも興味深い。 さらに、田中忠三郎さんは「麻と縄文の接点」で、三内丸山遺跡から、麻の種が出土したことに注目している。田中さんは、青森県の農山村を中心に木綿以前の麻布や樹皮の衣服の調査に長年たずさわってきた方だ。そして、「麻布をただ切ると、身が切られる。」「麻の着物(死装束)を着ると極楽に行く。」「女は麻糸をさがさない(扱わない)と蛇になる。」といった麻をめぐる言い伝えを通じて、麻が青森の生活のとても古い層をなすことを感じ、「麻布衣は弥生時代を越えて縄文時代から引き継がれたものではないか」という想いをつよく持ちつづけてきたという。そして、近年の発掘で、福井県の鳥浜貝塚の縄文の草創期の遺跡から麻の編物が発見され、日本海沿岸と北海道の縄文遺跡から、アカソ、苧麻(からむし)、オヒョウなどの植物繊維のアンギン様編物が出土するといったように、田中さんの仮説が確かめられつつある。 ところで、こうした古層の布のひとつである藤布のことが、賢治の「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」に出てくる。しかし、この話で語られている、藤蔓の繊維を凍らせて細かく裂き、口の中で噛んで柔らかくし、編んで着物にする、というのがどの地域の文化なのか、ずっと気になっているのだがよくわからない。どなたか、手がかりがあったら教えてください。 1999. 10.28 編集日誌 No. 67
賢治も華厳教の思惟とモナドとの奇妙なほどの類似に強い関心をもったらしく、賢治の詩の中でもモナドという言葉がしばしば使われている。 華厳経は「雁の童子」の舞台でもあるタクラマカン砂漠縁辺のオアシス都市コータンで編纂されたといわれるが、この地域を回廊とする東西の思惟の出会いと相互影響の歴史の中で華厳経が果たした重要な役割を教えてくれるものに、井筒俊彦さんのきわめて明晰な華厳教解読がある(井筒俊彦集9「東洋哲学」に収録されている「事事無礙・理理無礙」)。 この井筒さんの文章を読んで、華厳教の「インドラの網」のモデルとライプニッツのモナド論の類似は偶然ではなく、タクラマカン砂漠縁辺を通路としたインド文化、イラン文化とギリシャ文化の交流の歴史がその背後にあるのではないかと思うようになった。 井筒さんは、ギリシャ後期の哲学者プロティノスの「光」のメタファーに満たされた瞑想意識の世界と華厳経の世界の共通点に注目し、またプロティノスの時代のアレクサンドリアには、有力な仏教コミュニティが存在したといった点から、プロティノスが華厳教に触発されたこともありうるとしている。 もう一方で、プロティノスをはじめとする新プラトン主義の哲学者とライプニッツの関連が問題になるが、これについては、かなり明瞭なつながりが認められているようだ。たとえばドゥルーズ「襞----ライプニッツとバロック」には、ライプニッツのモナドという言葉は、新プラトン主義の哲学者の用語に由来すると書いてある。とすると、プロティノスなどの新プラトン主義の哲学者を仲立ちにして、華厳教とライプニッツのモナド論はつながっているという考え方も有力になる。 華厳教とモナド論の不思議な類似の背後に、タクラマカン砂漠を通路にしたこうした思惟のダイナミックな歴史があることを知ったら、賢治さんも感動するに違いない。 1999. 10.14 編集日誌 No. 66
そのために要のひとつになるのは、「春と修羅」の「序」の解読だ。「序」では野心的、哲学的な問題の投げかけがちょっととぼけた言いまわしにくるまれている。それぞれ部分の表現が面白いので読む人は引き込まれるが、全体で何を言いたいのかを読みとるのはとても難しく、途方に暮れてしまう。 とくに読者を困らせる箇所のひとつは、「これについて人や銀河や修羅や海胆は」ではじまる節の最後の括弧のついたつぎの部分だ。 (すべてがわたくしの中のみんなであるやうに/みんなのおのおののなかのすべてですから) 「序」にこめられた賢治のメッセージを読みとるには、この妙な命題の理解がひとつの鍵になりそうなので、私たちもこれを解読すべく頭をひねっている。今のところ、この命題の謎を解くには、華厳経やその注釈書に出てくる「インドラの網」のモデルを対応させてみるのがいいという考えになっている。 インドラの網は、以前に編集日誌でも触れたように、網のひとつひとつの結び目に珠玉があり、それぞれの珠玉が周囲の他の珠玉を映すという。これは、その中に世界を映す無数の珠玉の相互依存関係によって、世界はつくられてといるというモデルである。 賢治の命題をこのモデルに対応させると、「わたくし」も「みんな」も珠玉であり、「すべて」は世界ということになるのではないか。 そうすると、この謎めいた命題は、「わたしく」という珠玉に中に他の珠玉である「みんな」が映されているという形で「世界」は現れるとともに、「みんなのおのおの」珠玉の中にも他の珠玉が映されてという形で「みんなのおのおののなか」にも「世界」が表現されているといっていることになる。 こう考えると、「これについて人や銀河や修羅や海胆は-----」にこめらているメッセージも読みとりやすくなるのではないかと思っている。 1999. 9.20 編集日誌 No. 65
たとえば、「けふのせば布」という秋田県から岩手県北部の旅の記録のなかで二戸郡安代町の曲田での日記に、宮沢賢治の「鹿踊りのはじまり」の背景を考える上でとても示唆的な話が記されている。 「何かの神の夜祭があって、こもり明かした朝、笛鼓の音にうかれて、放牧の馬にまじり、角をふりたてて鹿が踊りまわる」のを男がかや野にかくれて目をみはる思いで見ていたが、子供が叫んだので、鹿はおどろいて「木のしげった山の中にみなとびこんでしまった。」そう男が語るのを半ば眠りながら聞いていた老人があくびをひとつして、「だから世の中に行われる獅子舞は鹿の踊りを見てはじめたものだというがほんとうだろう」と語ったと言うのだ(「菅江真澄遊覧記・1」p.186/「獅子舞」のところには、「東北の獅子舞は獅子ではなく鹿(しか)で---」という編者の註がついている)。 この記録は、こうした「鹿踊りのはじまり」の原型のような話が岩手では語られていて、それをもとに賢治は「鹿踊りのはじまり」の物語を書いたらしいことを示唆している。 それにしても、私たちにはそういう感覚が乏しくなってしまっているが、人間の文化にも「動物たちとの異文化交流」によって生まれたものが意外に多いのではないか、と思わずにいられない。 1999. 9.7 編集日誌 No. 64
飛騨は岩手と違って京都に近いが、山深いためやはり大和朝廷とは異質な文化をもつ地域である。そして、飛騨にもやはり大和朝廷に征伐されたものの、地元の人たちからは敬慕されつづけた両面宿儺(りょうめんすくな)という古代の豪族がいて円空が彫った傑作の両面宿儺像が丹生川村の千光寺にあることを知って、訪ねてみた。
千光寺は、1200年ほど前に空海の弟子のひとりの真如が建てた真言宗の寺だが、それ以前には袈裟山は両面宿儺の拠点だったようで、そのためか両面宿儺がこの寺を開いたという伝えがあるという。いずれにせよ、千光寺は両面宿儺と縁が深いようで、この寺には、円空より前の時代の古い両面宿儺像が伝えられている。千光寺の展示は、この古い像と円空の両面宿儺像を対比できるように並べてある。 1999. 8.25 編集日誌 No. 63
太田さんのお話では、父上が賢治と同年の生まれだったこともあって、ある頃から父上と賢治を重ね合わせて考えることが多くなったという。 太田さんの父上、誠一郎氏は、青森県の出身で、仙台高専で土木工学を教えた方だ。貧しい東北の生活を科学技術を応用して少しでも改善できないかという情熱をもち、また、家に集まってくる学生たちに、ベートーベンやモーツァルトのレコードを聞かせて、学生たちを啓蒙しようとしたというから、賢治と同時代を生きただけでなく、志にも共通する点が多かったようだ。 賢治は、ヨーロッパに強い憧れをもちながら、実際にヨーロッパの土を踏むことはなかったが、誠一郎氏はイギリスに留学している。当時の東北からイギリスに渡るとなると、大変なカルチャー・ショックがあったという。 このインタビューは、整理をした上で、「私にとっての宮沢賢治」に掲載する予定だ。 1999. 8.11 編集日誌 No. 62
そのひとつは、「少年の運命」という話で、これはギリシャ悲劇の「オイディプス王」と共通する構造をもっている。「少年の運命」は、次のようなあらすじだ。 ある貧しい家に赤ん坊が生まれ、予言者の姿をとった神さまが、この子が将来この国の国王になるという予言をする。それを聞いて怒った国王は、その赤ん坊を盗みだして殺すように家来に命じる。家来は赤ん坊がかわいそうになって、殺さずに篭に入れて川に流す。川下で洗濯していたおばあさんに救われた赤ん坊は、賢い子に育つ。この子の不思議な生い立ちを聞いた国王は不安になってこの子を殺そうとするが、行き違いで自分の王子が死んでしまう。国王は、予言された運命を変えることができないことを悟って、自殺してしまい、やがて、この子が国王になる。
「オイディプス王」の場合の予言は、この赤ん坊は父の王を殺し、母と結婚するという恐ろしいものだった訳だが、予言の実現を恐れて王が子どもを殺そうとし、憐れんだ家来が殺さずに捨てて、いろいろな経緯を経て、予言が実現するという話の構造はこの「少年の運命」の話と共通している。「オイディプス王」はギリシャに伝わる神話的な伝承をもとにして書かれたと考えられるから、その神話的な伝承と「少年の運命」がどこかでつながっているのだろう。
1999. 7.30 編集日誌 No. 61
展示会は、7月24日までだったというそうなので、来場者たちの反応を尋ねてみたいと思っている。 1999. 7.11 編集日誌 No. 60
佐藤信さんと藤原正教さんとによる脚本は、舞台で上演しやすくするインターフェイスの部分を書き加えた構造になっている。原作では、ばけものの世界裁判長に出世して、調子に乗りすぎたペンネンネンネンネン・ネネムが、サンムトリの火山が爆発した時に、人間の世界の側に墜落して、ネ パールからチベットに入る峠のあたりに姿を現してしまう。今回の脚本では、チベットに墜落したネネムが記憶を喪失して自分が誰だかかわらなくなってしまうが、この青年を介抱する娘が、隣で眠る人が見ている夢を一緒に見る能力をもち、その夢をもとにネネムの生涯を演じ、ネネムもだん だん記憶をとりもどしていくという展開になっている。この記憶を喪失した青年とチベットの神秘的な娘の部分が、脚本で書き加えられているインターフェイスの部分だ。こうした構造の脚本にすることで、劇として無理なく上演できる作品になったといえる。 この話はたくさんのおばけたちが登場するので、このおばけたちの有り様の工夫次第で、どんな舞台にもなる。佐藤信さんたちは、フゥフィーボー博士やザシキワラシやアフリカのおばけなどを結城孫三郎さんたちが操る、あやつり人形として登場させるという工夫をして、奇抜で、愉快な舞台をつくりだした。 この芝居を見てから、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とこれをもとに書き換えられた「グスコーブドリの伝記」というふたつの著しく違ったトーンの作品の不思議な関係について、おのずから想いをめぐらすことになった。ちょっと深刻に考えすぎるタイプのブドリの話がA面だとすると、調子者でおだてに乗って羽目をはずしやすいネネムの話がB面になっている訳で、この両方とも賢治の分身なのだと言える。そして、グスコーブドリの話とネネムの話をあわせて読めば、この両面が補い合って、うまくバランスがとれる。 そして、A面の話とB面の話が同時に進行している様子を想像してみるのも、面白い。ブドリは、冷害から人々を救うために、カルボナード火山島を爆発させて自ら犠牲になるが、その時、ばけものの世界ではサンムトリの火山が爆発して、いい気になりすぎていたネネムが人間の世界に墜落する。 つまり、火山の爆発の所で、天上に行くブドリとばけものの世界から転落するネネムが入れ違うことになる。 賢治さんは、こういう意味深長な謎を残してくれている。 1999. 6.25 編集日誌 No. 59
そこで、「クマのたんす」の作者の茂市久美子さんに連絡をとって、インタビューさせていただいた。茂市さんの故郷は、新里村の茂市という所で、盛岡と宮古を結ぶ山田線の茂市駅があるところだ。純木家具のある岩泉に鉄道で行くには、茂市駅から岩泉線に乗ると終点が岩泉駅だ。 茂市さんは小さい頃に、おばあちゃんから昔話をたくさん聞いて育ち、アンデルセンなどにも夢中になり、子供のころから児童文学の作家になりたいと思っていたのだという。インタビューを通じて知ったのは、1970年代の後半に、茂市さんはネパールに出かけてシェルパの民話の採集をしているということだ。この時の紀行と採集した民話が「ヒマラヤの民話を訪ねて」(白水社)という本にまとめられている。ヒマラヤで暮らす人たちの間ではどんな民話が語りつがれているのかを知りたいという想いが、この仕事になったのだそうだ。 1999. 6.16 編集日誌 No. 58
先日、金沢市民芸術村 市民芸術村ドラマ工房は、紡績工場の跡地を市が買いとった広大な敷地の一角にあり、工場の倉庫だったレンガ造りの建物の中を改装したもので、芝居の稽古場として使える上、工夫しだいでさまざまな形の舞台と客席をつくりだせる、演劇的想像力を刺激する空間になっている。 市民芸術村ができるきっかけは、市で紡績工場の跡地の利用方法を検討するうちに、保存することになった倉庫を使って、若者の演劇や音楽の稽古場をつくるという構想が浮上したことにあるのだという。小劇場系の演劇をやっていた青海さんたちは、この構想に対応するためには、各劇団がまとまる必要があると判断して、演劇人協会という組織をつくり、青海さんが事務局長になった。市民芸術村が具体化する過程で、市長は、施設利用の企画・運営のプランは各分野の現場の人たちから出させるという考え方だったため、ドラマ工房については演劇人協会からのプランが生かされ、青海さんが企画・運営の中心になるディレクターになった。最初は、演劇人の代表という立場でディレクターの仕事をするが、しだいに演劇人としての仕事とドラマ工房の企画・運営の両方を兼ねるのは無理であることがわかり、青海さんは、市民参加型の演劇活動を活発化するための環境づくりの役割に専念するようになる。 そして、ドラマ工房の事業予算を活用して、倉庫を改装した劇場で芝居をしてみたいというグループがどんどん育ってくるような支援プログラムをつぎつぎに開発していく。ドラマ工房のページにも書かれているように、役者の基礎を身につけるコース、戯曲を書くための講座、照明などの最低限の舞台技術の講座などのプログラムがつくられ、これに助けられて沢山の演劇集団が生まれている。その結果、公演と稽古でドラマ工房は、昼も夜も深夜も予約がいっぱいの状態になっているという。 1999. 5.26 編集日誌 No. 57
BookSearchEngine.comでは、10万以上の本に関連したサイトをテーマ別に分類、整理しているという。そして、このサイトでは世界の48のオンライン書店の価格を比較してくれるという。試しにMiyazawa Kenjiを入力すると、J.Bester訳の"Once & Forever"と "Milky Way Railroad"がヒットする。そして前者のハードカバーを選ぶとアメリカ、イギリスの12の書店の価格が表示され、$17.50から$36.46と大きな幅があることがわかる。こうしたサイトを覗くと、オンライン・ショッピングが急速に普及しつ つある理由が、少しは見えてくる。 1999. 5.12 編集日誌 No. 56
ひとつは、Deer Dance についてのメイルだ。"宮沢賢治の宇宙"英語版の中の"The Wo rld of Kenji's Works"には、「鹿踊りのはじまり」(The Origin of the Deer Dance )について書いたページがあるが、これを読んだという英語のメイルが届いた。とこ ろがこのメイルには、「私がグアテマラで見た Deer Danceについて理解するのに役 だった」と書いてあるのだ。グアテマラにとんな鹿踊りがあるのかわからないが、前 に編集日誌でも触れたように、ネイティブ・アメリカンのYaquiの人たちなどの間に 伝統的な鹿踊りが継承されているので、それと同じ系統のものかもしれない。メイル をくださった方は、宮沢賢治のことは知らずに「鹿踊りのはじまり」について書いた 文章を読んで、グアテマラの鹿踊りについて納得がいく部分があったのだとも思われ る。仮にそうだったとしても、これは必ずしも奇妙な誤解とは言えないだろう。グア テマラの鹿踊りと岩手の鹿踊りとは外見上はあまり似ていないにしても、その精神は あい通じる点が多いということは大いにありうるからだ。 もうひとつは、「グリーンゲリラ」についてのメイルだ。現代のイーハトーヴォを求 めての中の「イーハトーヴォに移り住んだ楽農民」を読んで、この中に出てくる「グ リーンゲリラ忠治屋」に関心をもったあまほろさんがメイルをくださった。あまほろ さんは、ニューヨークに住んでいた時にGreen Guerillas <http://www.greenguerillas.org/>の活動をしていたので、「グリーンゲリラ」で検索をしてみて、「イーハトーヴォに移り住んだ楽農民」のテキストをみつけたのだという。 ウェブサイトを見ると、Green Guerillasは、アーティストLiz Christyさんが始めた 運動で、種や苗の会社や建築家、アーティスト、農業経験のある人たちの協力を得て 、街の中のさびれた空き地に種を蒔き、苗を育てて食べ物や花が育つコミュニティ・ ガーデンをたくさんつくっているようだ。「グリーンゲリラ忠治屋」の方は、都会か ら東和町に移り住んで畑仕事をはじめた田所さん夫妻の「ライダーズハウス and 生 活実験室」で、ライダーの人たちが安く泊まれる宿を提供するとともに、農業を始め ようとする人たちの手助けをしようという試みだ(その後、田所さん夫妻は花巻に移 っている)。2つのグリーゲリラの活動の内容はかなり違うが、やはり、精神には共通 するものがあるようだ。 1999. 4.25 編集日誌 No. 55
佐野さんの言う「環境文化」とは、地域の自然との生きた対話的な関係の もつ祭や芸能のことだと考えればほぼ当たっているだろう。日本の芸能の 美意識は、自然の混沌としたノイズ(雑音)と楽音が溶けあうところにあり 、これは「環境文化」のひとつの典型的なあり方だと佐野さんは考えてい る。たとえば、半戸外の舞台で演じられる能では「野外の風雨の音、背景 の池や森からやってくる小鳥の声などの環境音と、囃子のヒビキ、謡う声 を同時に味わえる」環境設定がなされる。そして、「万象、森羅、是非、 大小、有情、無情、ことごとくおのおの序破急をそなへたり。鳥の囀り、 虫の鳴く音に至るまで、その分その分の理(ことわり)を鳴くは序破急なり。 しかれば面白き音感あり、あはれをもよおす心もあり。」(世阿弥「拾玉 得花」)というように、自然の偶然的な要因と対話しながら、その時、そ の場の劇的世界をつくりだしていく方法意識を世阿弥はもっていた。 そして、佐野さんは、こうした自然のノイズと楽音の混交したあり方に着 目して、賢治の作品、「風の又三郎」や「セロ弾きのゴーシュ」「銀河鉄 道の夜」を読み直すことを提案している。たとえば、ゴーシュとかっこう のやりとりから、「ヨーロッパ的合理のドレミファ(楽音)から、かっこう の鳴き声(非常に楽音に近い雑音世界)を分析・判断しようとするのではな く、逆にかっこうの声(雑音世界)からドレミファをみつめ、聴きとる」と いった賢治の音響観を読みとるべきではないかと、佐野さんは言う。 1999. 4.20 編集日誌 No. 54
1999. 3.25 編集日誌 No. 53
この中でパルバースさんは、賢治について「私は一度も童話作家だと思っ たことはありません。むしろドキュメンタリー作家ではないでしょうか。」 と語っている。この「ドキュメンタリー作家」という表現は、日本で普通に 使われているドキュメンタリーという言葉の範囲を思い浮かべてしまうと、 あまりわかりやすくはないかもしれない。しかし、「注文の多い料理店」の 序文で「ほんたうにもう、どうしてもこんなことがあるやうでしかたないと いふことを、わたくしはそのとほりに書いた」と言っているように、作品が 経験の記録に近いものであることは、賢治も強調している。しかし、パルバ ースさんのように「賢治は自然現象の記録係」だと言ってしまうと誤解され やすいのではないだろうか。むしろ、自然についての認識を含む、自らの「 心の現象の記録」であることを賢治は重視したのだと私は思う。「賢治の作 品世界」の「時空」 1999. 3.4 編集日誌 No. 52
1999.2.28 編集日誌 No. 51
「野生とは」という話の中で、ネイティブ・アメリカンのリオ・グランデ・ プエブロの友人から聞いた、鹿の猟のことをスナイダーは書いている。猟に 出る前には、身を潔め、謙虚な気持ちになる。山に入ると彼は鹿に歌いかけ る。歌は、鹿に私のために死んでくれと頼むものだ。私が鹿の猟をしようと しているのではなく、鹿が私のために死んでくれるという気持ちが歌われる。 そして猟をする時に、鹿が自分を贈り物として与えてくれれば、それに報い て私は鹿に役立つことをしてあげようという気持ちをもつ。 これを読むと、熊の猟がうまくいくのは、熊が人間に自分を贈り物として与 えてくれるからだというアイヌの人たちの伝統的な考え方ととてもよく似て いることがわかる。アイヌの人たちは、神のクニに帰っていく熊にたくさん 贈り物をする儀礼を行う。 そして、人間のために、熊たちが再び喜んで自分を与えてくれるように願う のだ。 こういう考え方は、都合がよすぎると思う人もいるかもしれないが、儀礼を 通じて、つねに、他の生き物の側からも感じ、考える視点をもつことになり、 他の生き物たちと人間の相互依存的な関係を意識するため、乱獲に陥ったり するのを防ぐことができるのだといえる。 1999. 2.10 編集日誌 No. 50
MOTHER EARTH: HER WHALES(母なる地球の鯨たち)という詩には、つぎのよう な部分がある。 North America, Turtle Islands, taken by invaders who wage war around the world. May ants, may abalone, otters, wolves and elk Rise! and pull away their giving from the robot nation. Solidarity. The People. Standing Tree People. Frying Bird People. Swimming Sea People. Four-legged, two-legged, people. (「亀の島」の侵略者 合衆国は/世界中で 戦争おっぱじめる されば/立 ち上がれ 蟻よ アワビよ カワウソよ 狼よ エルクよ!/ロボットの国々 から 君らの贈物を取りもどせ!/連帯する 人類人間!/立っている 樹木人 間!/空駆ける 鳥人間!/水泳ぐ 魚人間!/四つ足の またに二本足の人間!)この詩の中には"Standing Tree People","Frying Bird People","Swimming Sea People"という不思議な言葉が並んでいるが、これが何かは、この詩集 に収録されている散文のPLAIN TALKを読むとわかる。この表現は、スー・イ ンディアンが人間以外の生き物のことについて鳥を「飛ぶ人たち」、魚を「 泳ぐ人たち」といった呼び方をしているのにならったものなのだ。 スナイダーの考えでは、他の生き物を犠牲にしてきた人間の生産や消費の拡 大を抑制するには、人間以外の生き物のコミュニティの代表も国政に参加さ せる必要があるという。そういうと突飛に聞こえるが、ネイディブ・アメリ カンの文化では、祭の時に、鹿の霊にとりつかれて踊ったり、トウモロコシ の精になったりするが、これは生き物たちの意思を代弁しようとしていると 考えることができるという。 1999. 1.25 編集日誌 No. 49
絹織物を復元するには、養蚕を復活させなければならないが、カンボジアでは養蚕が途絶えてしまっていた。そこで、カンボジアの村々に適したカンボウジュという種の黄色い蚕をタイから運んで、カンボジアの人たちに育てもらうということを試みている。 こうした試行錯誤が森本さんの「メコンにまかせ------東北タイ・カンボジアの村から」(第一書林)という本に記されている。 1999. 1.14 編集日誌 No. 48
韓国のChungnam 国立大学の化学の教授、Juwhan Liu さんからのメイルで、「宮沢賢治の宇宙」の韓国語版をつくってくださるという提案だった。Liu さんはアニメーションの「賢治の春」を見て賢治のことを知ったようだ。それから、「銀河鉄道の夜」などを読んで感心し、インターネット上のサイトを通じて賢治のことを韓国の人たちに紹介したいと思うようになったという。そして、インターネット上の「宮沢賢治の宇宙」を読むうちに、このサイトも賢治を世界に紹介したいという同じ志をもっていることを知り、それなら自分で賢治のサイトをつくるより「宮沢賢治の宇宙」の韓国語版をつくる方がいいと思うようになったのだと言う。ありがたいことだ。 Liu さんはアメリカで勉強したので英語は得意な上、日本語も読めるという。それに、日本文学専攻の友達もいるというので、韓国語版をつくっていただくには、願ってもない条件の方だ。インターネットのコミュニケーションというのは、思いもしなかったことが起きるものだと驚いている。
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