編集日誌 ご意見ご感想

2001. 12. 19 編集日誌 No. 105
    このところ地球上では、おぞましい出来事が続き、どちらかという楽天的な私たちで も暗澹とした気持ちになっている。そんな中で、賢治の最晩年の文語詩稿をよく読ん でみる機会があった。
    最晩年の賢治は病が重く、体力の衰えとともに、挫折感と絶望的な気持ちに陥りがち だったと思われる。しかし、そういう感情をさらけ出すのではなく、出来事をつきは なして見つめる醒めた視点を手に入れられる詩形を、文語詩稿では探っているよう だ。
    文語詩50篇の先駆形と最終稿を較べると、最終稿は、大幅に語句を削って、ぎりぎり にまで簡略化された詩形になっているのが明らかだ。文語詩は、こうした簡潔な表現 を可能にする詩形だった。そして、簡略化を通じて、自分の感情の表現をできるだけ 抑えて、出来事を見つめる視線のうちに、自己を表現するという方法をとろうとして いる。そのためか、〔ほのあかり秋のあぎとは〕のように、これから起きようとして いる何事かの気配を感じさせる、短編小説の冒頭のような詩も文語詩50篇には多い。 こういう詩形を必要としたのは、賢治の心のうちは、あまりにも暗かったからなのだ ろう。晩年の賢治にとって、文学作品を通じて播いた種が後の時代にうまく実を結ぶ という確信をもてなかっただろうし、時代の状況もますます希望を見出しにくいもの になっていた。

    賢治の晩年の時代に較べると、私たちのおかれた状況は、暗澹としていると言って も、明るい光が入ってくる小窓が閉ざされている訳ではない。私たちのまわりには、 大きな希望につながりそうな小さな灯がところどころに点在しているのだ。
    今年も、そういう小さな灯と言える活動をしている人たちに、あちこちで出逢うこと ができた。そのひとつが、福岡市の荒川瑞代さんが創業したエコ・オーガニックハウ スだ。
    室内環境汚染の診断と対策について化学物質過敏症の患者さんたちのよい相談相手に なっている建築家の佐藤清さんからエコ・オーガニックハウスのことを聞いて、一 度、お訪ねしたいと思っていたのだが、12月のはじめに、福岡を行く機会があり、荒 川さんにお会いすることができた。
    化学物質過敏症は、「賢治の宇宙」の姉妹サイトWebLogue41号で取り上げたように、発症する と、ごく微量の特定の化学物質に反応して、自律神経系を中心としたひどい発作が起 きるようになる。しかし、ごく微量に反応するため原因物質をつきとめるのが難し く、また、この疾患に詳しい医者もほとんどいないので、医者に診てもらっても、気 のせいだと言われて、患者さんは孤立してしまい、絶望的な状態に陥ることが多い。 北里研究所病院の臨床環境医学センターなど、化学物質過敏症の診断治療をできる医 療機関もごく少数できているが、原因物質がつきとめられた後の対策にも、困難な問 題が多い。患者さんの住まいのどこかに原因物質を発散する箇所がある場合が多いの で、まず問題箇所をつきとめその内装材や建材などを取り除く必要がある。その上 で、問題のある化学物質を含まない内装材や接着剤や塗料を使って家の中を修復して いく。ところが、エコ建材と称するものでも、含まれる成分を公表しない会社が多 かったりするため、問題のなさそうな素材を探すのは、現状ではとても難しい仕事に なっている。

    荒川さんは、娘さんが小さい頃から喘息で苦しみ、室内環境汚染がアレルギーや化学 物質過敏症の原因になっていることに気づいていたので、自分の家を建てる時に設計 士や工務店に、問題のない素材を使うように執拗に頼んだのだが、本気で対応しても らえなかった。そもそも、安心できる住宅の建材や内装材などを揃えた流通チャネル が存在せず、設計士や工務店も、そういう素材についての知識をもっていないことが わかった。
    こうした経験を通じて、荒川さんは、安心できる住宅の建材や内装材、接着剤、塗料 を揃えた店を自分でつくろうと考えるようになり、エコ・オーガニックハウスを創業 した。できるだけ安心できる品物を探し出し、高くなりすぎないように生産者から直 接仕入れるために、荒川さんは持ち前の行動力を発揮した。

    たとえば、天然接着剤、自然塗料については、ドイツにでかけてメーカーのブレー マーと交渉し、直接、輸入できるようにした。藺草の産地にでかけて、農薬をできる だけ使わない藺草の生産を依頼する。生産者のところに出向いて、どんな作り方をし ているか聴いて、できるだけ問題の少ない作り方をしてくれるところを探しだす。
    また、化学物質過敏症やアレルギーの患者さんは、人によって反応が出る物質が違う ので、個々に使い方をアドバイスしながら販売することが不可欠で、とても大変な仕 事だ。
    しかし、こうした品揃えが進み、室内環境汚染による疾患に苦しむ人たちのところに エコ・オーガニックハウスについての情報が伝わるようになるとともに、売上も徐々 に伸びていくようになっているという。

    ごく微量な化学物質に反応してひどい発作を起こす化学物質過敏症の患者さんは少数 の特殊な体質の人だと思いがちだが、どうもそういう認識は間違っているようだ。化 学物質過敏症の患者さんの症状を注意深く調べてみると、化学物質過敏症の場合、自 律神経系を中心に症状が現れるけれど、免疫系の疾患であるアレルギー、ホルモン系 を撹乱する環境ホルモンなどと根は同じようで、体内への化学物質の蓄積がいろいろ な形で現れてくるらしいことがわかる。こうしたことが実感されるとともに、化学物 質過敏症は特殊体質の人の話だなどと言っていられなく筈だ。
    また、化学物質による環境汚染の深刻さが認識されるとともに、少数の人の切実な ニーズに応えることから出発したエコ・オーガニックハウスの仕事も、多数の人が求 めるものになっていくのではないかと思われる。

2001. 10. 29 編集日誌 No. 104
    編集日誌No.95に、賢治のイーハトーヴォと島尾敏雄さんのヤポネシア論とを重ね合 わせて考えてみるという視点について書いたことがある。しかし、その時には島尾さ んの著作の中に宮沢賢治について書いたものがあるとは思っていなかった。
    最近、島尾さんの著書「南島通信」のページをめくっていて、「奥六郡の中の宮沢賢 治」という賢治紀行を書いているのを見つけた。島尾さんは、宮沢賢治の文学には違 和感をもっていたが、ヤポネシア論の大事なポイントのひとつである東北についての 感受を深めるために、賢治を通じて東北を探ろうとしたようだ。

    島尾さんは、奄美大島の加計呂麻島に基地をおく特攻艇の隊長として敗戦を迎えた 後、一時、神戸と東京で暮らし、やがて奥さんの故郷の奄美大島に住むようになっ た。島での暮しを通じて、奄美の人たちの立居振舞や人と人の関わり方に、ヤマト(本 土)と違ったやわらかさを感じとった島尾さんは、それがどこからくるのかを執拗に 探っていった。そしてこれが奄美諸島から沖縄本島、宮古諸島、八重山諸島にいたる 琉球弧ぜんたいに共通する感触ではないかと考えるようになる。
    島尾さんはヤマトの人たちに息づまるような「固さ」と画一性を感じ、居心地の悪い 思いを持ち続けてきた。そうした「固さ」は、武士道から来ているのかもしれないと 言う。琉球弧の人たちには、そういうものがなく、やわらさ、やさしさを感じた。こ うしたヤマトと違った感触をもつ琉球弧の視点から、日本列島の歴史や文化を捉え直 してみると、それまでと違った日本列島の姿が見えてくると、島尾さんは考えるよう になる。そして、琉球弧の感触を出発点にした時に見えてくるもうひとつの日本列島 に「ヤポネシア」という名前をつけた。ヤポネシアという名前には、メラネシア、ポ リネシア、インドネシアといった群島の連なりのひとつとして日本列島を見るという 意味がこめられている。従来の近畿を中心にした日本の歴史の見方では、中国とのつ ながりにもっぱら目が向いていたのに対して、ヤポネシア論では、日本列島と南の 島々とのつながりが重視される。琉球弧の感触の由来を探るとそうした南の島々との つながりが大事なことがわかってくるからだ。

    琉球弧の文化は、言葉などをよく調べるとヤマトと共通のルーツから分かれたと考え られる点が多いが、感覚的にはヤマトからは異質な面が強く、近畿を中心に見た日本 からははみ出した地域である。島尾さんのヤポネシア論では、琉球弧とともに東北も ヤマトからはみ出した多様性をもつ地域だと考える。島尾さんの両親が福島の相馬の 出身で小さい頃から東北になじみがあり東北人としての意識をもっていて、琉球弧の 感触は東北に通じるものがあると島尾さんは感じたのだ。
    ヤポネシア論において東北についてこうした位置づけをしたものの、島尾さんは体験 的に知っているのは東北の入口にあたる福島だけだったため、もっと奥の東北の感触 を知りたいという思いを強くもっていた。そして、その大事な手かがかりのひとつが 賢治にあると思っていたので、編集者に誘われて賢治をめぐる旅に出ることになっ た。

    エッセイの表題にある「奥六郡」とは、胆沢、江刺、和賀、稗貫、紫波、岩手の六郡 のことで、この地域に島尾さんが強い関心をいだいたのは、大和の王権に抵抗したア テルイから奥州藤原氏にいたるまで、蝦夷(えみし)と関わりの深い人たちの活動の舞 台だったからだ。そして、この奥六郡は、宮沢賢治がよく歩いた地域とほぼ重なって いる。
    賢治の作品を読みながら奥六郡を旅して、島尾さんは、それまで相馬での体験をもと にいだいていた東北観を変えていくことになった。東北の性格について「暗いくぐも りの面」が強いと思っていたが、奥六郡を歩いて、「もうひとつの明るい外向きの 顔」があるのを感じるようになった。自分を東北人だという意識をもつ島尾さんが宮 沢賢治に違和感を感じたのは、賢治の作品には東北の「明るい面」が強く出ているか らではないかという。

    北上川流域に、特にこうした明るい「のびやかさ」を島尾さんは感じとる。「北上川 流域の風景には、あるのびやかさが感じられる。やわらかさと言ってもいい。悠久の 眠りの中の風景。人々のそもそものはじまりからの生活が営まれるにふさわしい地勢 のひとつの典型。----北上川流域の風景は、もともとのびやかな広さと、ひとつの気 持ちを宇宙のはてに誘いこむような、はるかなあたりの限定(山々の横たわり)を持っ ているのではないだろうか。」と記す。そして奥六郡を歩くと「それらの風景のどこ を切りとっても、宮沢賢治の童話と詩のイメージが浸みわたっていた。うらやましい ほどに、彼の文学の息づかいと風景のただずまいがひびき合い、とけ合っている。」 という。
    さらに、賢治のフィールドを歩いて起きた東北観の変化について、「私は自分のせま い東北観から、東北をいかにも東北くさい土着にとじこめようとしたが、そういう土 着のにおいをも内閉の世界で保ちながら、一方でそこからとび出して、見たところ全 くかかわりのない世界につきぬけてしまうところもあるのだということに気づいた」 と島尾さんは書く。賢治のイーハトーヴォ文学は、こうした東北の風土や心性に根ざ していることを発見したのだと言える。

    島尾さんは、琉球弧でえられる感触について考えていき、深いところで東南アジアな どの島々とのつながりをもつヤポネシアという捉え方にゆきついた。それに対して、 賢治は、奥六郡の風土や心性を深く掘りさげていき、そこから世界や宇宙につきぬけ ていく、イーハトーヴォ文学を生み出した。
    近畿を中心にした日本からはみ出す異質性をもつ琉球弧と東北は、違った形ではある が、それぞれの固有性をつきつめていくことを通じて大きな世界が開けてくる土壌を もっている。島尾さんのヤポネシア論と賢治のイーハトーヴォ文学は、そうした可能 性を掘り起こしてみせた。この両方の関係をつき詰めていくことによって、ヤポネシ アの新たな可能性が見えてくるかもしれない。

2001. 9. 30 編集日誌 No. 103
     岩泉純木家具の工藤宏太さんが、新聞の切り抜きを送ってくださった。岩手日報の2001年1月9日の日付のもので、盛岡在住の賢治研究者である板谷栄城さんが書かれたコラム記事だった。工藤さんのお手紙によると、私たちに送ってくださるつもりで、切り抜いたものの、行方不明になっていたのだという。
     このコラムで、「銀河鉄道の夜」に出てくる「蛍烏賊(ほたるいか)」についての前々からの疑問が解けたと板谷さんは書いている。「銀河鉄道の夜」の「銀河ステーション」には「まるで億万の蛍烏賊(ほたるいか)の火を一ぺんに化石させ、そら中に沈めたといふ具合」といった表現が出てくるが、「ホタルイカは富山湾の滑川付近の特産であり、その華々しい発光の光景は、春のごく限られた時期に滑川に行かないと見ることはできない」のだという。そして、賢治は一度も富山県には行っていない。となると、賢治はいったい、どういう経緯でこのホタルイカのイメージを知ったのか、板谷さんは疑問に思った。賢治の周囲にいた富山県人から聞いたという可能性を想定したが、いまひとつ腑に落ちない感じがしていた。
     この疑問を解く鍵を、板谷さんは、賢治の愛読書だった「トムソン科学大系」全8巻の中に見出した。板谷さんは10年来この「大系」を探しながら、入手できずにいたが、数年前、盛岡の古本屋で偶然、見つけることができた。そして、この中に発光中のホタルイカの写真が詳細な解説つきで載っていたのだ。
     板谷栄城さんは、最近では、「宮沢賢治、短歌のような」(NHKブックス)を書かれた方だ。お手紙によると、工藤さんは高校時代に板谷さんに化学を習ったのだという。また、やはり、賢治研究家の吉見正信さんからは、漢文を教えられたそうだ。

2001. 9. 17 編集日誌 No. 102
     賢治の「グスコーブドリの伝記」は飢饉の話ではじまる。ブドリとネリの兄妹はイーハトーブの大きな森で育ち、父親は名高い木樵だった。
    ある夏、7月になって少しも暑さがこず、秋には穀物が稔らず、ほんとうの飢饉になってしまう。父親は大きな樹を街にもっていくが、少しの麦の粉をもって帰るだけで、食べるものが乏しくなり、心配がつのる。やがて、ブドリとネリに少しの食糧を残して、父親も母親も森に入っていって消息をたってしまう。
     「グスコーブドリの伝記」の冒頭のこうした山の民の飢饉の話について、ちょっと変ではないかと、私たちは感じてきた。厳しい自然にさらされた山村で暮らしていくのはたしかに大変なものだが、山の民には自然の恵みを多面的に活用する知恵が伝えられているので、気象の異変に耐えて生きのびていく力は、平地の農村よりかえって強靭なのではないか。いろいろな聞き書きなどを読んで、そんなふうに考えるようになったからだ。

     谷川健一「柳田国男の民俗学」(岩波新書)を読み、柳田国男が書いた「山の人生」の冒頭に記されている美濃の山村で起きた子殺しの事件も、この疑問と通じる問題を含んでいることを知った。柳田が記している話では、妻に先ただれ、二人の子供を育てていた炭焼きを仕事とする男が、食べるのに困って二人の子供を殺してしまう。男が昼寝から目覚めると、夕日がさす時刻で、二人の子供が大きな斧を磨いていて、「おとう、これでわたしたちを殺してくれ」と言う。この悲惨な場面が心に強く焼きつけられる。
     柳田国男は法務局の参事官をしていた時にこの事件の予審調書などを読み、その記憶をもとに「山の人生」の文章を書いたのだという。
     しかし、谷川さんによると、後に、この炭焼きの男、岐阜県明方村(現、明宝村)の新四郎の事件のことが、金子貞二「奥美濃よもやま話 三」に記されていることが知られるようになった。驚いたことに、新四郎が子供を殺してしまった経緯は、「山の人生」と「奥美濃よもやま話」とでは大きく異なっているのだ。
     「奥美濃よもやま話」では、新四郎が子供たちを殺してしまったのは、食べるのに困ったからではない。新四郎の娘は、山と峠をへだてた村に奉公に出ていたが、奉公先の家の嫁が、新四郎の娘と自分の夫の仲を疑うようになり、娘に盗みの濡れ衣を着せる。あらぬ疑いをかけられて、家に帰ってきた娘に、新四郎とその娘の弟が同情して一家心中しようとした、というのが実際の経緯なのだと言う。これが取り調べの調書では、飢餓のため親子心中をはかったという話になったのは、その方が裁判官の同情をかって罪が軽くなると、係官が判断したからではないかという。つまり、山村の貧しさについての通念を前提にして、実際とは違った事件のてんまつが虚構されることになったらしい。

     また、「東北学Vol.4」に掲載されている岡恵介「東北の焼畑---アラキ型をどう読むか」では、昭和はじめの農村恐慌の頃の岩手県北上山地の山村、安家村(現、岩泉町)について書いている。当時の新聞では「娘の身売り」「餓死を待つ」といった見出しで農村恐慌の悲惨さが報道され、こうした脈絡で、山村でドングリを主食にしているということが報じられたという。しかし、安家村では、雑穀や米だけでなく、シタミ(ドングリ)をアク抜きして食糧にするのは、凶作の時の救荒食という訳ではなく、ごく普通のことだった。にもかかわらず、これが、農村の悲惨と短絡して報道されたようだ。
     地元の人たちに、昭和恐慌の時のことを尋ねても、食糧不足で困ったという記憶は出てこないそうだ。岡さんによると、安家村では、気象異変にも耐えられる雑穀の焼畑が養蚕と畜産に組み合わせられていたために、食糧危機への対応力をもっていたのではないかと言う。

     「グスコーブドリの伝記」の冒頭の山の民の飢饉の話にも、当時の社会に流布していた貧しい山村の生活という通念が投影している面があるのではないかと思えるが、どうだろうか。

2001. 8. 20 編集日誌 No. 101
     「宮沢賢治の宇宙」の中の「私にとっての賢治」でインタビューさせていただいた王敏(ワン・ミン)さんが「宮沢賢治、中国に翔る想い」を岩波書店から出版した。
     この本は、王敏さんの博士論文をもとにしたもので、賢治作品と中国との関わりについての従来の研究の弱点を補うために、大きく2つの点に絞って、詳細な究明を行っている。
     ひとつは、賢治作品と「西遊記」の関係である。「西遊記」は、唐の時代に仏教の経典を求めて、西域を通ってインドに行った玄奘の旅をもとにした物語だから、賢治が切実な関心をもっていたとしても不思議はない。じっさい、弟の清六さんは、「西遊記」と「アラビアン・ナイト」が賢治の子供時代からの愛読書だったと語っていたという。ところが、「西遊記」と賢治作品の関連は、これまでほとんどとりあげられていないテーマなのだと、王敏さんは指摘する。
     玄奘とともに旅をする孫悟空はひょうきんものの面をもつキャラクターであり、やはり調子に乗ってはめをはずすことのある賢治は親近感をもったと思われる。
     そして、孫悟空の特性が「山男の四月」の山男などに投影されているのではないかというのが王敏さんの提案する仮説である。猿は赤い顔のものが多く孫悟空の目玉は黄金色なので、これは賢治が描く山男の属性と共通する。その上、「西遊記」には、人間を小さくしてしまう「紫金葫蘆」や「羊脂玉淨瓶」など奇妙な道具がいろいろ出てきて、悟空も妖怪に「陰陽二気瓶」という容器に小さくされて吸い込まれたりする。これは、山男が小粒の薬の六神丸に容器に入れられる、といった部分の下敷きになっているのではないか、と王敏さんは考える。
     もうひとつの研究テーマは、「北守将軍と三人兄弟の医者」と「唐詩選」の関係だ。従来の研究にも、「北守将軍と三人兄弟の医者」には、「唐詩選」の影響があることはさまざまな形で指摘されてきたが、王敏さんは、両者の関係について詳細な検討を試みている。
     この物語では、塞外の砂漠に出陣していたソンバーユ将軍の軍勢が、30年ぶりにラユーの首都に戻ってくるが、その姿はあわれにくたびれ果てたあり様だ。将軍の身体は鞍にはりつき、鞍は馬について離れなくなってしまっている。こうしたこわばった状態の将軍と馬を、名医の三人兄弟の医者が治癒する。
     唐の時代にも北の乾燥地帯の遊牧民との戦いが大きな課題とされたので、しばしば砂漠に軍が派遣されたため、「唐詩選」にはこうした戦の苦難を詠んだ詩も多い。したがって、「唐詩選」から得たイメージが「北守将軍と三人兄弟の医者」の場面設定の土台になっているという考え方は説得力をもつ。
     また、王敏さんの指摘で興味深いのは、この物語の舞台になっている首都の「ラユー」とは「洛陽」をモデルにしているという考え方だ。中国の発音で、「洛陽」は"lou yang"で、「ラユー」に近い聞こえ方をするという。賢治が中国人の発音を聞いて、それをもとに「ラユー」という地名を使ったというのは、ありそうなことに思える。
     「宮澤賢治語彙辞典」の「ラユー」の項では、香辛料の「辣油(ラーユ)」をもじったものだという解説になっているが、これはちょっと違いそうだ。

2001. 8. 6 編集日誌 No. 100
     「宮沢賢治の宇宙」の韓国語の姉妹サイトをつくっておられる、忠南大学高分子工学科教授の柳 朱桓(Juwhan Liu)さんが、訪ねて来られた。Liuさんは、「宮沢賢治の宇宙」の一部分を韓国語に翻訳するとともに、賢治作品の韓国語訳など独自の内容を加えて、インターネットを通じて韓国の人たちへの賢治作品の紹介を意欲的に進めてくださっている方だ。いつかお会いできるといいと思っていたのだが、突然、その機会がやってきた。
     東京工業大学大学院に在学する韓国から留学生の郭根昊さんから電話があり、「Liu先生が今、東京にいらっしているのだけれど、今晩、お会いできないか」と言ってきた。幸い時間をつくることができ、郭さんの案内で私の事務所に来ていただいた。
     Liuさんは、高分子化学をアメリカで勉強されているので、英語のメールをやりとりしている限りでは、アメリカ仕込みのコミュニケーションの流儀の方のような感じもしていたが、実際にお会いしてみると、穏やかで繊細な感性をもつ人だった。
     Liuさんは英語が上手で、日本語は賢治作品の翻訳を手がけているくらいだから読むのは達者だが、話すことはあまりできない。私の英会話はかなりいい加減だ。しかし、留学生の郭さんは日本語がかなり話せるようになっている。それで、英語と日本語と韓国語が入りまじった会話で、あまり問題なく意思疎通ができた。
     Liuさんは、賢治の伝記的な事実を詳しく調べたいということだったので、手元にあった手がかりになりそうな文献をいろいろ紹介したり、差しあげたりした。
     以前に編集日誌にも書いたように、Liuさんが賢治のことを最初に知ったのは、岩手放送が制作したアニメーション「賢治の春」を通じてだ。今回、お会いしてわかったのは、韓国語の字幕の入った「賢治の春」のビデオが流通しているという点だ。「セロ弾きのゴーシュ」のアニメーションも韓国語字幕入りのビデオがあり、人気があるという。
      また、「銀河鉄道の夜」の韓国語訳と出版という大事業をLiuさんが進めていることは以前にも触れたが、進行状況についてうかがうと、翻訳はほぼ終わりつつあるが、出版はまだということだった。

2001. 6. 29 編集日誌 No. 99
     宮沢賢治が物語や詩のなかでしばしば使っているイーハトーヴォという地名は、岩手をエスペラント語風に変形させたものだと言われている。このイーハトーヴォという地名には、岩手の固有の風土に根ざしながら、普遍的な世界への通路を拓いていこうとする、賢治の問題意識が端的に表れていると言える。こうした賢治の独特な途の拓き方を、「イーハトーヴォ的な方法論」と呼ぶことにしよう。こうした賢治の方法論の特徴はどこにあるのか、まだ十分な考察がされていないのではないだろうか。
     「イーハトーヴォ的な方法論」の特徴を明かにしていくには、さまざまな角度から考えてみる必要があるが、華厳経で詳しく説かれている法界(ほっかい)とイーハトーヴォを較べてみるのが、有効な視点のひとつではないかと私たちは考えている。華厳経には、善財童子が弥勒菩薩に導かれて、菩薩の住処である法界に入るにいたるまでを語った「入法界品」という長い物語がある。この法界は、瞑想や行いの積み重ねによって菩薩が到達する、とても深い境地のことだと言える。
     法界における個別性と普遍性の関係は、個別性から概念的な抽象化を行って普遍性に至るという筋道ではなく、さまざまな個別性をそのまま包み込むような普遍的な秩序が現れる、というところに重要な特質がある。他方、イーハトーヴォの物語の魅力は、岩手の野や山の心象スケッチから日常的な秩序を超えた世界への移行がきわめて繊細に描かれる点にあるが、これは固有性の強い岩手から普遍性を帯びたイーハトーヴォへの転調と言ってもいいだろう。そして、イーハトーヴォの普遍性は、やはり、人間や生き物の固有性を否定してしまうのではなく、それぞれの固有性をそのまま包みこみ、結びつけるような性格をもっているようだ。こうした法界とイーハトーヴォの同質性について考えてみると、賢治の方法論の特徴が捉えやすくなるのではないだろうか。
     たとえば、賢治の物語では、「鹿踊りのはじまり」の嘉十と鹿たち、「なめとこ山の熊」の小十郎と熊、「どんぐりと山猫」の一郎と山猫の関係ように、親密な状態が深まると動物たちの言葉の意味がわかるようになる。つまり、人間と動物を隔てる日常的な世界では超えられない敷居が低くなり、人間と動物の間に相互浸透的な関係が生まれる。しかし、人間と動物がいり混じって、たがいの区別がなくなったりする訳ではない。
     華厳経の法界においても、個々の存在の固有性は保たれたまま、たがいに無礙(むげ)に浸透しあうことが可能な状態が生じる。例えば、鈴木大拙の「華厳経の研究」の「第三篇 菩薩の住処」では法界について、「すべてのものが隔絶せずに融け合ってゐるのだが、それでゐていちいちのものが個性を失うことのないように荘厳せられている」「法界は一般に無礙と名づけられること、その意味するところは、すべての個物はその分割性と相互抵抗にも拘わらず、ここでは全く相互渉入の状態にある」と言った説明がされている。
     中国では、華厳経学が盛んになり、こうした法界についての経文をどう読み解くかをめぐって入念な哲学的な考察がなされた。そして、華厳経学では、法界において、事どうしがそれぞれ固有性を保ちながら相互浸透的であるような関係(「事事無礙」という言葉が使われる)が起きうるのはなぜか、という点について、独特な説明がされている。つまり、「事」を成り立たせる諸要素という点では、あらゆる「事」は共通の諸要素からなる。しかし、相互的な関係によって、共通する諸要素のうちある部分が顕在的になり、残りの部分は潜在化するために、それぞれの「事」は、異なった個性をもつというのだ。
     他方、賢治は、岩手からイーハトーヴォへの転調が「心の深部」からの力によって起きると考えているようだ。そして、「注文の多い料理店」の広告文のなかで、イーハトーヴォの物語は、「たしかにその通りその時心象の中に現れたもの」だから、「どんなに馬鹿げていても、難解でも必ず心の深部に於いて万人の共通である。卑怯な成人たちに畢竟不可解な丈である。」と主張している。「心の深部」には、万人、さらにあらゆる生物が共通の潜在的な諸要素をもつが、大人の場合は文化の鋳型に自らを合わせたため、そのうちある要素だけが顕在化するようになっている、という考え方だろうか。そうだとすると、法界との比較で、イーハトーヴォの特徴の一面を浮彫にできると思われる。
     賢治は、華厳経の法界についてよく知っていたと思われるが、わたしたちは、「イーハトーヴォ的な方法論」が法界の考え方をもとにしてできたと言いたい訳ではない。賢治の発想は複雑なので、つねにさまざまな要素が響きあっていて、ひとつの要素だけで説明しようとすると、間違ってしまう。しかし、「イーハトーヴォ的な方法論」に示唆を与えたもののひとつが法界だった、というのは大いにありうることだろう。

2001. 5. 15 編集日誌 No. 98
     賢治の「なめとこ山の熊」の淵沢小十郎は熊捕りの名人で、生業として仕方なく熊を殺すが、熊の気持ちがわかり、熊たちも小十郎のことを好きだったという。小十郎の住む山には栗があり、住まいの後ろの少しの畑では稗(ヒエ)がとれたが米は少しもできなかった。小十郎が四十の時に息子と妻が赤痢にかかって死んで、残された老婆と子供たちを養わなければならなず、熊を捕って現金収入を得なければならなかった。小十郎は捕った熊の胆(きも)や皮を町の中の大きな荒物屋の旦那に売りにいくが、旦那の前では小十郎は小さくなってしまい、高飛車の荒物屋に恩着せがましく熊の皮を安値で買いたたかれる。この物語では、こんな具合に、小十郎の生活が具体的に描かれていて、賢治が聞き知っていた熊捕りを生業にする人のことを、とり入れているのではないかと感じさせる。他方、小十郎と熊との間の、たがいに相手に対して敬意をもつ関係は、狩猟を生業にする人たちの感じ方をどれくらい反映し、どれくらいが賢治の想いが投影されたものなのか、という疑問もおきる。
     こうした点について考えるよい手がかりを与えてくれるのが、田口洋美さんによる狩猟文化についての研究だ。田口さんの労作「列島開拓と狩猟のあゆみ」(「東北学」Vol.3総特集・狩猟文化の系譜)では、松橋和三郎というマタギが「なめとこ山の熊」の小十郎のモデルと思われる人物だとしている。松橋和三郎と勝治の親子は、秋田県阿仁(あに)の比立内(ひたちない)出身の旅マタギで、1906年に花巻市郊外の幕館(まくだて)という集落に移り住んだ。近在の人たちはクマ狩りを松橋親子から学び、狩猟組をつくるようになっていった。この松橋和三郎は、賢治とも親交をもった人なのだという。松橋親子が住んだ幕館集落は豊沢川の上流部で、豊沢ダム建設の際に水没してしまったところだそうで、なめとこ山は豊沢湖の奥に聳える860mの山だという佐藤孝さんの発見(奥田博「宮沢賢治の山旅」)とも辻褄があう。
     田口さんによると、旅マタギというのは出稼ぎ型の狩猟民で、ふるさとの村に小さな耕地をもち、その耕作は女房子供にまかせ、旅先の狩猟で現金収入を得るという生活をした。長野県の秋山郷に定住した旅マタギの場合には、旦那と呼ばれる豪商、豪農がスポンサーとなり、買い取った毛皮や熊の胆を温泉地などに卸していたという。「なめとこ山の熊」の小十郎と旦那の関係も、これとよく似た形であることがわかる。
     松橋和三郎や小十郎の旅マタギ型の狩猟のスタイルは、個人や小集団で行動するのに対して、田口さんの「越後三面(みおもて)山人(やまんど)記」(農文協・人間選書)では、山村の村人たちの組織的な狩猟の実態を具体的に知ることができる。
     新潟県朝日村三面は、羽越地方を代表するマタギ集落として知られてきたところだが、県営ダム建設のために1985年に閉村した。そうした事態が迫っていた1980年代前半に、民族文化映像研究所が三面の山村生活を映像に記録する事業を行い、田口さんもこのチームに参加した。「山人記」には、ある面では山の自然と闘い、ある面では自然の力の恩恵をうけながら、つくりあげられてきた多面的な生業や生活について、三面の人たちの肉声が記録されている。
     三面では、もともとクマ狩りにはさまざまな形があったが、田口さんたちが見ることができたのは、デンジンと言われる春に集団で行われる「巻き狩り」だ。一般的なのは斜面にいるクマを追い上げて獲る「マキアゲ」という方法だ。クマの多くは斜面で追われると尾根を目指して登りはじめ、自分たちの移動ルートに戻って逃げ道を開こうとする。こうした行動を予想して、山人たちはクマを待ち伏せして撃つ。しかし、実際には、クマにはそれぞれ個性があり、また人間に巻かれた経験のあるクマは知恵がついていて、なかなか思った通りにはいかず、段取りを見抜いてやすやすと逃れたりもする。それで、三面の源右エ門さんは「クマと人間、比べてもしょうがねぇども、どっこいどっこいどもな。どつちが頭がいいなんてこと一概にいえねぇんだ。------山の獣では一番山の神様に近いところにいるんださがで、山の中では人間よりも賢い訳だ。」と語る。また、「クマ獲るためには、まず、クマになることからはじめねばなんねぇんさ。それができねぇとクマは獲れねぇ。だからクマから学ばねばねぇ訳なんさ」と小池善茂さんは言っている。こういう場合はどう感じ、どう行動するか、クマの気持ちがわからないと狩りはうまくいかないのだ。また、山人たちは、生活のために生き物の命を奪うが、山の自然には「数えきれねぇほど恩がある」という気持ちを持ち、生き物どうしの相互依存の網の目の中に人間もいることを強く意識していた。
     賢治が描いた小十郎は、こうした実際の山人たちの山やクマに対する心根をかなりよく捉えているのだと思われる。

2001. 4. 1 編集日誌 No. 97
     坂口安吾と宮沢賢治というとあまり縁がなさそうたが、安吾は「教祖の文学----小林秀雄論」の中で、自分が好む作品の見本として賢治の詩「眼にていふ」を引用している。
     小林秀雄は、吉田兼好の「徒然草」を空前絶後の批評として高く評価し、「彼には常に物が見えている、見え過ぎている、どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。」と書いた。小林は批評家としての兼好に自らを重ねあわせているのだろうが、こうした小林の批評を「生きた人間を文学から締め出して」しまっていて「一つの文学的出家遁世(とんせい)」だと、安吾は批判する。そして、「見えすぎる眼」に対置して、宮沢賢治の「眼にていふ」を持ち出し、素朴きわまる詩だが、西行や実朝、徒然草よりはるかに好きだと書く。「だめでせう/とまりませんな/がぶがぶ湧いてゐるんですからな/ゆふべねむらず/血も出つゞけなもんですから/そこらは青くしんしんとして/どうも間もなく死にそうです」ではじまる詩だ。
     半分死にかけてこんな詩を書くのは罰当たりな話だが、「偶然なるものに自分を賭けて手探りにうろつき廻る罰当たりだけが、その賭けによって見ることができた自分だけの世界」がここにはあると、安吾は書いた。
     小林の批評は「生きた人間を文学から締め出して」いると安吾が言うのは、例えば「無常ということ」に出てくるつぎのような言い方だ。「生きている人間などというのは、どうにも仕方のない代物(しろもの)だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来(しでか)すのやら、自分の事にせよ、他人事にせよ、解った例(ため)しがあったか。------其処(そこ)へ行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりしっかりして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。」
     安吾は、こうした達観したような言い草をもっとも嫌った。安吾のそういう美学がよく表れているのは、「青春論」の中にある宮本武蔵の剣法についての評価だ。武蔵の剣法は「いつ殺されてもいい」覚悟の上に築かれたものではなく、「溺れる者藁もつかむ、というさもしい弱点を逆に武器にまで高めて、これを利用して勝つ剣法」だという。こうした武蔵の剣法を「ほんとうの剣術」だと安吾は高く評価する。
     賢治の文学の力強さも、達観した境地からくるのではなく、自らのうちにあって互いに抗う、さまざまな者たちの声に耳を傾けるしなやかさとしぶとさにあり、安吾が共感したのも、そういう点なのだろう。

2001. 3. 15 編集日誌 No. 96
     「賢治の音楽室」というCDブック(小学館)では、宮沢賢治が作詞、作曲した作品を林光さんとオペラシアターこんにゃく座と風の街合唱団が歌い、さらに詩人の吉増剛造さんが賢治のいくつかの詩と「鹿踊りのはじまり」を朗読をしている。吉増さんの朗読は、賢治の側に入り込んでしまうような読み方で、とても面白い。また、林光さんが歌う「北そらのちぢれ羊から」を聞くと、作曲家としての宮沢賢治の作品の独特な深さに驚かされる。
     このCDブックの中の「音楽家ミヤザワケンジの贈り物」という林さんの文章には、オペラでしばしば賢治作品をとりあげてきた林さんらしい、賢治歌曲についての洞察が書き記されている。
      林さんは、保守的な視点から言われるような「音楽的素養」を賢治が持ち合わせなかったことは幸せだったと言う。そして、「『北そらのちぢれ羊から』は、-----『音楽的素養』人を逆さに吊して振っても、絶対にこぼれ落ちてくることのない、いわば賢治歌曲の極北である。」と言い切る。保守的な視点からの音楽的素養の計りかたとは、「滑らかにピアノがひける」「均整のとれたメロディが書ける」「まちがった和音を使わないで伴奏がつけられる」といったものだと言う。賢治もある意味ではこうした素養を身につけようとしたのかもしれないが、賢治の歌曲は、「詩人の直感がみずからの<素養>を打ち負かして<向こう側の世界>へ飛び出してしまったような、新しい音楽」だと林さんは見なす。
     この指摘を読んで、鶴見俊輔さんの「限界芸術論」の中での、セロ弾きのゴーシュは「限界芸術家」だという表現を思い出した。林さんの洞察を踏まえると、ゴーシュとともに音楽家としての賢治も「限界芸術家」だと考えてみるといいことに気づく。
     「限界芸術論」についてはNo. 92でも触れたが、鶴見俊輔さんによると、シロウト芸術家が「限界芸術家」に変貌するのは、職業芸術家の模倣から離れて、おのずから湧き起こる切実なものを表現するすべを見つけた時だ。ゴーシュの場合、音楽を職業にしているので、シロウト芸術家というのは適切ではないかもしれないが、賢治と同様に音楽家としての高度な専門的な教育を受けてはいない。そして、ゴーシュは、動物たちのやりとりを通じて自分なりの音楽をつかむ。「セロ弾きのゴーシュ」のこうした変貌の物語には、音楽の「限界芸術家」としての賢治の音楽観が投影されているに違いない。

2001. 3. 1 編集日誌 No. 95
     「世界は今ボーダレスの風」というサイトをつくっている奄美大島の田原正三さんから、「宮沢賢治の宇宙」にリンクをしてくだったというメールを頂いた。田原さんのサイトをのぞいてみると、周縁にある小さなものが秘める輝きに導かれて境を超えていく、しぶとい反骨精神が伝わってきた。
     たとえば、1991年に旧ユーゴスラヴィアから独立したスロヴェニア共和国とその文学について、「『剣よりペンが強い』ヨーロッパ最小国。人権に配慮の憲法。美しく豊かな自然を活かした グリーンツーリズム観光。作家もジャーナリストもほとんどが詩人『詩魂生まれる国』」だと田原さんは記し、スロヴェニアの作家、詩人を紹介している。
     そして、「これでいいのだ! ボーダレスリンク」は、田原さんが探り出した「ボーダレスリンク時代を生き抜く、希望と気概あふれる厳選リンク集」だ。また、「ヤポネシアのしっぽ」は、田原さんの視点からの奄美・沖縄案内のページだ。この中の奄美人物ワールドでは、詩人の泉芳朗さん、藤井玲一さん、作家の一色次郎さん、画かきの田中一村さんなど奄美に関わりの深い人たちの紹介があり、教えられるところが多い。

     「ヤポネシア」という言葉は、言うまでもなく奄美で暮らした作家、島尾敏雄さんが提案した造語だ。奄美から沖縄の八重山にかけての島々の連なりを、島尾さんは琉球弧と呼んだ。そして琉球弧で暮らす者の視点から見た日本列島を「ヤポネシア」と名づけた。インドネシア、ポリネシア、メラネシアのように、「-ネシア」は島の連なりを意味する。こうした太平洋の島々の連なりの一環として日本列島を位置づけるという構図をもつと、中国との関係で見た日本という伝統的な構図にとらわれる場合とは違った見通しが開けてくる。琉球弧の文化は、さまざまな形で外に開かれた性格をもっていて、「ヤポネシア」という視点から見ると、日本列島の開かれた可能性が見えてくるのだ言える。

     田原さんが「宮沢賢治の宇宙」にリンクをしてくださったのをきっかけに、以前から時々考えていた「イーハトーヴォとヤポネシアの関連」というテーマを思いだした。
     賢治のイーハトーヴォの物語は、この地名が岩手のエスペラント風の変形であることに端的に示されるように、岩手の風土に根をおろしながらあるところで転調がおきて、地球上のあちこちの神話や昔話、童話に隣接する世界に入り込む。賢治のこうしたイーハトーヴォの心象スケッチは、地域の風土から出発して世界的な普遍性を獲得する、すぐれたグローカルな方法論となっている。こうしたグローカルな方法論がどうして可能だったのか。ここには、重要な問題が含まれている。
     賢治の作品から感じられるように、岩手ではいくつかの異なる時代の文化が深層に積み重なって、それぞれが生きた力をもっている。これが大事な点のひとつなのだろう。
     島尾さんのヤポネシア論も、さまざまな方向に開かれた性格をもつ琉球弧の視点から考えることによって、外に開かれた日本列島の可能性を見出している。独自性をもちながら外に開かれていて、グローカルな思考を生む琉球弧の特質から出発することによって、島尾さんは日本の歴史をめぐる伝統的な観念を脱構築しえた。
     つまり、岩手と琉球弧には、グローカルな思考を生み出す共通の土壌があるのではないかと考えられる。これは、いったいどういう共通性なのか?この問題を考えていくと、岩手と琉球弧のそれぞれの可能性を掘り下げていく有効な手がかりが得られるのではないかと思われる。

2001. 2. 15 編集日誌 No. 94
     Yoko Ondrejkaさんというアメリカ在住の方から、賢治の「雨ニモマケズ」の詩をもう一度読みたいのだけれど、どうすれば手に入るかというメールを頂いた。  Yokoさんは子どもの頃日本で育ち、小学校5〜6年の時に通っていた学校では、クラスで毎朝「雨ニモマケズ」を朗読した。その後忘れていたが、最近「雨ニモマケズ」の冒頭の部分を思いだし、もういちどぜひ全体を読みたいと強く思っているのだという。
     というのも、このところすっかり落ち込んだ気分になっていて、「雨ニモマケズ」が自分を励ましてくれるように感じているからだ。人からどう見られようと気にせず、利己的にならず、黙々と自分が正しいと思う生き方をすればいい。そういう姿勢がこの詩にはあったように思う、とYokoさんは書いてきた。

     「雨ニモマケズ」の原文と英訳を"The World of Kenji Miyazawa"からダウンロードできるのだけれど、面倒な手続きはわからないということだったので、原文のローマ字と英訳を入力してメールでお送りした。
     Yokoさんからの返信には、英訳も送ってくれたので、日本語ができない妹たちに読んであげた。私も、小学生の時のように、毎朝、声を出して読もうと思っていると、書いてあった。
     世界中のいろんな所で、賢治の作品がいろんな風に読まれるようになっているのは、興味深いことだ。

2001. 2. 1 編集日誌 No. 93
     昨年の12月8日の毎日新聞の「ひと」の欄にデンマークで「風のがっこう」を主宰するケンジ・ステファン・スズキさんの紹介記事が出ていた。スズキさんは、1967年に大学を中退してデンマークに勉強に出かけ、デンマーク女性と結婚し国籍も取得したという人だ。1991年から日本に風力発電を普及させる仕事に携わり、97年にデンマーク中西部ワンホイ町の自宅近くの農場に、日本人向けの環境・エネルギー問題の研修施設「風のがっこう」を設立し、すでに、700人以上の人が研修を受けているという。
     出身地を見ると、「岩手県東山町」とある。東山町は鈴木東蔵さんがつくった東北砕石工場があった所で、宮沢賢治は東蔵さんに頼まれて晩年にこの砕石工場の仕事を手伝っている。ステファン・スズキさんの生い立ちは、こういう東山町の歴史と結びつきがあるかもしれない。そう思って、新聞にはメールアドレスが入っていたので、スズキさんにメールを送ってみた。
     スズキさんがくだった返信によると、宮沢賢治の作品はあまり読んでいないということだったが、スズキさんの家系は東蔵さんとつながりがあるという。鈴木東蔵さんの奥さんがステファン・スズキさんの生家の鈴木家から嫁いだ人なのだ。そして、スズキさんの祖父は東蔵さんの砕石工場に出資し、この工場の破綻のために資産を失い、その借金を背負ったご両親もたいへんに苦労されたそうだ。
     スズキさんは東山町にできた宮沢賢治ミュージアムで99年12月に講演をしたといい、その時の記録をファックスで送ってくださった。この講演では、日本の場合と対比しながら、スズキさんが住む町の地域づくりが語られている。
     たとえば、風力発電所の設置の仕事で北海道に出かけると、道路ばかりが立派で走っている自動車が少なく、地元で物の生産があまりなされず、肥沃な農地も使われていない。それに日本ではエネルギー利用できる家畜の糞尿の半分以上がそのまま棄てられ、河川を汚している。そして、地方の町村には就業機会が少ないため働き手の年齢層が流出して空洞化が進んでしまっている。
     他方、スズキさんが住む町は、東山町とほぼ同じくらいで9,700人だが、1970年から97年の間に人口が37.5%増え、就業機会も大きく増加しているという。こういうことが可能になったのは、第一に町議会議員に「町をどうするか」というビジョンがあり、そのビジョンを実行する能力をもつ町役場の職員がいたからだという。
     たとえば、スズキさんの「風のがっこう」をつくる際に、農地を農業以外の用途に使用する特別許可を県から得る必要があったが、町議会が短期間で許可し県庁に嘆願書を添付してくれて、2週間で手続きが終わってしまった。あまり早く許可がおりたのに驚いて町長にお礼にいったところ、「町を守るのは我々であり、中央政府の役人でも県庁の役人でもない。法律は違反すれすれまで拡大解釈しても、町民のために利用する。」と町長は話したという。日本の現状を思いうかべると溜息が出るような話だ。
     また、デンマークでは、オイル・ショック後、風力発電、バイオガス発電、廃棄物最終処分地でのメタンガス利用などを積極的に進め、エネルギー輸出国に転じている。
     講演記録にはそこまで書かれていないが、スズキさんが住む町の「町をどうするか」というビジョンは、地域の資源をうまく生かし、地域の中のさまざまな機能のつながりを強め、それによってさまざまな就業機会をつくり出していくということだったのだと思われる。自然エネルギー利用も、そうした地域の内発的な発展と結びついていた時に、うまく進んでいくのは間違いないだろう。

▼これより前の編集日誌を読む(1999〜2000年)


宮沢賢治の宇宙 フォーラム