Q(4)あの有名な「雨にも負けず」の詩は、殆どの本が「そういうものにわたしはなりたい」で終わっています。しかし、賢治の直筆の手帳をみると、そのあとに「南無妙法蓮華経」の題目が書かれています。これは文脈からしても、あきらかに「雨にも負けず」の詩の締めくくりであり、結論になる部分だと思います。これを勝手に削除するということは、この詩を一個の文学としてみた場合、あるいは賢治の心象スケッチとみる観方、その他実証主義的に賢治の心の思いをありのままに伝える、これら何れの観点からみてもきわめて不当なことと私は考えますが、皆様はどのようにお考えですか。勿論、法華経の信者でない人はこれが削除されている方があるいは好都合か、それほど重大なことでもないかもしれませんが、それ以前に賢治が法華経の信仰を持っていたということは厳然たる事実です。だからこの詩の解釈云々は別のこととして、ありのままを伝えていないという全く素朴な当たり前のことについて意見を聞かせていただきたいと思います。(鎌田敏輝さんより)
A
Date: Tue, 26 Jun 2007   goさん

Date: Wed, 20 Apr 2005   山猫さん

Date: Sat, 26 Aug 00   白木健一さん

Date: Mon, 15 Feb 99   yodakaさん

Date: Fri, 16 May 97  山口真人さん

Date: Sun, 11 May 97  katuhikoさん

Date: Mon, 31 Mar 97  ありQさん

Date: Thu, 27 Mar 97   鎌田敏輝さん

Date: Sun, 23 Mar 97   みたこさん


Date: Tue, 26 Jun 2007
  go

ご質問の答えとして、267番の質問の回答を紹介します。
ご参考として2006年9月23日の花巻での賢治研究会発表記録 「雨ニモマケズ・・・」とマンダラの考察、を送りますので 差支えなければ宛先お教えください。

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Date: Wed, 20 Apr 2005
  山猫

本当にぼくもそう思います。 下記の件にしても、この詩については発表の仕方に納得いかないことが多いです。 宮沢賢治の有名な詩『雨ニモ負ケズ』ですが、十年くらい前各新聞に「日照りのときには・・・」ではなく「日取り(給与)のときは・・・」だったと賢治直筆の解読が改められたのがとても話題になりましたが、その後の教科書、賢治各種全集はじめとした多くの書籍の改訂は行われていないようです。どういった経緯があるのでしょうか?みなさんが気付かないだけなのか?騒がれないのが不思議でしょうがありません。是非教えてください。(Q.309)

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Date: Sat, 26 Aug 2000
  白木健一

もっともな指摘と思います。 雨にも負けず・・・の後の文字マンダラは、同じ手帳の前の方にも 出てくるので、たまたまそこに書いただけかもしれません。 文字マンダラは鎌倉時代の日蓮さんが発明したもので法華経寿量品 の仏を現したものだそうです。 ただ私は寿量品について調べているうちに、文字マンダラと雨にも負 けず、の文を一体と考えると寿量品の一節そのものを賢治が表現した ような気がしてきているのです。 毎日の仕事に追われて、まだこれ以上進みませんので不明確な答えで ごめんなさい。

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Date: Mon, 15 Feb 1999
  yodaka

原作者の意図を重視すべきだと思います。賢治はこの「雨ニモマケズ」を、遺書代りに書いたものと見てます。ということは、来世でも法華経信者として生まれ変りたかったのではないでしょうか。最後の「そういうものにわたしはなりたい」とあることから推して、次生への願いを込めて書いたものとして解釈してもいいのではないでしょうか。

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Date: Fri, 16 May 1997
  山口真人

僕はあの詩を絶望の詩だと受けとめています。 後に書かれたお題目には賢治の最後の希望がこめられているのだと思います。だから、削除してはいけないと思います。 でも、教科書にそのままで書かれたものを説明できる国語の先生は、今の日本にはほとんどいないと思います。

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Date: Sun, 11 May 1997
  katuhiko

鎌田さん 宗教を聞く耳持たない人に教化はちょっと可愛そう。賢治の言いたい真実に迫れない可愛そうな人たちと一歩下がってみては?法によって人によらざれ 平面的一面的な人の多い近代を変えて行くには多くの人と時間が必要です。すさんだこの次代に賢治の100周年によって真実を観ようとする人がちょっとでも増えることはいいことです。

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Date: Mon, 31 Mar 1997
   ありQ

『生き物』に対する「慈しみ」、生あるものの「哀しさ」そしてそれらをあるがまま受け止めようとする「強さ」(私は賢治の作品に共通していると思うのですが)これらの根元はすべて「法華教」にあったのかと今までは「詩(うた)」として感動したこの作品ですが、改めて奥深さを感じることができました。たしかに、宗教が前面に出てくると受け取る側は否定的になりがちだと思います。しかし、だからといって作品の1部を勝手に省略してよいものなのでしょうか。それは賢治が本当に私たちに伝えたかった作品なのでしょうか?やはり「あるべき1文」として広く知られて欲しいと思いました。

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Date: Thu, 27 Mar 1997
   鎌田敏輝

みたこさん、貴重な意見を有り難う御座いました。おっしゃるとおり「一般的な出版物の場合の削除については容認しうる」でしょう。ただ、それは編集上のハウツウのレベルのことです。私は単に賢治(文学)を研究するというような立場でものをいっているのではありません。当然のことながら、賢治文学に親しみ、それを愛好し、さらに進んで出来うることなら少しでも賢治の世界に近づき、それを追体験出来ればと念願しているものです。賢治の文学は単なる文学ではないと思います。多分に宗教的教化を含んだものです。彼の手帳には「法華文学の創作 名ヲアラハサズ 報ヲウケズ」とあります。また、彼の遺言には、「法華経」を千部印刷して知己友人に届けてほしいとあります。「私の全生涯の仕事はこの経をあなたのお手元に届け」ともあります。全生涯の仕事即ち詩や童話を創作することは、とりもなおさず法華経の真理をあなたのお手元に届けるということではないでしょうか。賢治の文学にはそのような明確な創作意図があります。ただ、その「法華経の真理」というものが、単なる一宗派の教条などであってはならないと思います。しかし反面、賢治ははっきりと「南無妙法蓮華経」と書いているのですから、それは日蓮聖人の宗教以外のなにものでもないでしょう。「雨ニモ負ケズ」の評価は二分しています。賢治の代表的な詩に取り上げる人もいれば、まったくの愚作と言い切っている研究者もあります。私は少なくとも、この最後の「お題目」が削除された「雨ニモ負ケズ」については、愚作とまではいいませんが、その価値は半減すると思います。

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Date: Sun, 23 Mar 97
   みたこ

大変デリケートなテーマですね。しかし私は、<一般的な>出版物の場合の削除については容認しうると考えます。 「宮沢賢治の作品を理解する」又は「研究する」場合と、単に「<雨ニモマケズ>という作品を鑑賞する」場合とは少し違うような気がします。 我々の多くは、「宗教」に対してどう評価すべきかという確固とした考えを持ちません。抵抗感を持つ人も少なくないのではないでしょうか。そのようであっても、最初は気軽に賢治さんの心象スケッチに触れ読み進み、そのうちに徐々に賢治さんの人となりや考え方に興味を持ち理解したいと願い、そうなってはじめて賢治さんの「宗教」を「ありのまま」受け入れることができるようになるのです。少なくとも私の場合はこのような経緯でした。 きっと、はじめから前面に宗教的なものが具体的に示されているものを読んでいたら、賢治さんに対してこころの壁をつくってしまったのではないかと思います。 そして、特定の宗教の思想以上にひろがる賢治さんの世界を今こうして感じることができることを大変よろこんでおります。

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