岩泉町は、広葉樹林の森や龍泉洞を源流とする清流が流れ、宇霊羅(ウレーラ)という神秘的な名前の山に抱かれる、のどかな町である。その岩泉町で広葉樹の大木を活かした家具づくりをつづける岩泉純木家具の社長、工藤宏太さんは、「ふるさとの森選定事業」など地域づくりのコーディネーターでもある。 編集部:岩泉純木家具は広葉樹の素材を活かした家具として知られるようになっていますが、工藤さんが岩泉で純木家具をはじめた経緯はどのようなものだったのでしょうか?
この頃、岩泉でも広葉樹林を伐採し針葉樹を植える人工造林が急速に進みつつあり、豊かな広葉樹の天然林が減っていくことに危機感をもちました。伐採された広葉樹は主にパルプ材などに安価に販売されていましたが、広葉樹林の減少を抑えるためにも広葉樹の価値を見直し、広葉樹を高付加価値化する用途を開拓する必要があると考えました。そのためにさまさまな試みがなされたのですが、私は、樹齢数百年という広葉樹の大きな樹を活かした高級家具の製作に挑戦しました。 当時岩泉には、伝統的な技能をもつ指物師の人たちがまだ残っていたので、そういう人の技能を活かしながら、大都市の顧客の嗜好にもあうデザインや素材の持ち味を活かした家具づくりをめざしました。最初は、かなり苦戦をしたのですが、大都市のマンション住まいの人たちなどを中心に、大きな一枚板を使ったテーブルなどがだんだん売れるようになっていきました。ちょうどこの頃、値段は高くても、長く使えるしっかりした自然な素材の家具を身近におきたいという、自然志向のライフスタイルが浸透してきて、それと純木家具の試みがうまくかみ合ったんですね。
工藤宏太さん:家具をつくるのに使っているのは樹齢100年から300年の大きな樹ですが、これを製材機で厚板にします。それから、数年間、風雨にさらす状態にして自然乾燥します。樹が山の斜面に立っている時には、風のあたり方や光の条件などに応じて、ある部分にさまざまな力がかかり、それに耐える力を貯えているのですが、この自然乾燥の間にそうした応力を出し尽くして、家具材として安定した状態になります。 編集部:工藤さんは岩手の天然林の中で育った樹木と対話する仕事を長年なさってきた訳ですが、宮沢賢治も岩手の風土との対話をつづけた人だと思います。工藤さんにとっては賢治はどんな存在ですか?
20年ほど前のことですが、岩手県のある木材市場で、長さ5m、直径1mの大きな栗の木と出会ったんです。年輪を数えてみると約270年。産地は早池峰山麓の砂子沢ということでした。辺材の部分が朽ちていて、倒れて10年は経っていると思えました。250年をこえる栗の木は珍しいので、是非と意気込んで入札し、手に入れることができました。 この栗の木は自分の所の製材機には大きすぎたので、友人の製材所に運びこんで、板にすることにしました。厚さ6cmに製材していき、ちょうど6枚目の板が離れた時のことです。パッと毛のようなものが飛び散ったんです。丸太を見ると、10cm×20cmくらいの穴があり、黒い毛が詰まっているようでした。リスの巣だなと思って取り出してみました。すると驚いたことに、黒い毛の塊は仔熊のミイラだったんです。年輪を数えると90〜120年前の所にこの穴はあり、100年前後の間、木の幹の中に仔熊が眠っていたことになります。そのあとで、どうしてこういうことが起きたのかと、いろいろ考えました。 この栗の木が樹齢150年くらいの頃、地上から180cmくらいの所に、元枝が腐った穴があいていて、なぜかそこに仔熊が入り込み、木の成長とともに穴が閉じて、仔熊は木の幹に封じ込められたまま100年前後がたったのでしょう。 マタギの老人の話では、母熊は近くに危険が迫っている時、一時、仔熊をどこか安全な所に隠してから逃げることが多いのだそうです。この仔熊も、そういう状況で、母熊が木の穴に隠したのかもしれません。
編集部:大きな樹木の中には、その木と周囲の自然との交渉の歴史が刻みこまれていることがよくわかるお話ですね。賢治の詩や物語には地質学的な時間がよく出てきますが、樹木の時間について考えたらどんな物語が生まれるか、興味深い問題です。
工藤宏太さん:最近も、山菜採りやきのこ採りにいった人が熊によく出会って驚かされています。しかし、熊もかわいそうなんです。天然の広葉樹林には、多様な植物や動物がいて、熊の餌も豊富だった訳ですけれど、広葉樹林がどんどん伐採され単調な針葉樹林にされてしまうと、熊の食べ物がなくなってしまうんです。それで熊は仕方なく、餌を探しに里に降りてくる。 編集部:天然の広葉樹林が減っていくそうした状況を心配して、工藤さんは「ふるさとの森づくり」の活動をなさっているのですね?
工藤宏太さん:岩泉町のふるさと創生事業の一環として「ふるさとの森推進委員会」がつくられました。
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