森と水の町でインド・ミティラー地方の民俗画展を開いた「この指とまれ」の会
1996年5月、岩泉町の「この指とまれ」の会は、岩手の奧深い森と水の町で育つ子ども達への贈り物として、インド・ミティラー地方の民俗画との出逢いの場をつくった。この会の代表の佐々木信子さんは、賢治の精神と通じる、宇宙と交感するの画との触れあいが岩泉における「賢治生誕百年祭」だったという。
インド・ミティラー地方の民俗画制作の実演 |
編集部:佐々木さんは、いつから岩泉にお住まいなのですか?
佐々木信子さん:茨城県土浦市で生まれ育ち、霞ヶ浦と筑波山が私の故郷です。東京生活12年の終わりに良和さん(夫)と出逢い、岩泉に遊びにきました。その時、「人間(ひと)が住むところはこういうところ---。」と私の感覚でこの町をとらえたんだと思います。1980年でした。それからずっと岩泉に住んでいます。
編集部:佐々木さんが代表の「この指とまれ」の会は、「食は命」の講演会、南インド食文化交流会、ジャズと民話とパントマイムの世界、マニプリ舞踊公演、リサイクルスポット「この指とまれ」の会開設、ミティラー地方の民俗画展、ひとり芝居「アテルイ」の公演などとずいぶん活発な活動をしていらっしゃるようですが、これはどういう会なんですか。?
佐々木信子さん:小学校のPTA活動で知りあった母たちがメンバーで、1993年に結成されました。「見つめよう 耳を澄まそう そして語りあおう」が「会」のテーマです。
子ども達と観たり、聴いたり、学びあいたいコトを、私たちが企画し、そのつど応援してくださるおとな達に助けられて、"出逢いの場" を提供してきました。今は、中高生の子ども達がボランティアスタッフとして、おとな達顔負けの活躍で、"感動の場"をつくってくれています。
岩泉は、自然環境は最高の町ですが、異文化とのふれあい、芸術文化との出逢い、人的交流は、遠くまででかけなければならないんです。そしてそれがかなうのは、一部の人たちだけなんですね。そこで、この町の子ども達が望めば誰もが出逢うことができる "ふれあいの場" と "出逢わせたい人間(ひと)" を私たちが企画して、岩泉に呼んでこようという発想です。
欧米との国際交流から、アジア圏との国際協力へ。また地球市民のひとりとしての生き方が問われている時代のようです。子ども達の未来は、国境のない時代を迎えるでしょう。まさに、賢治のいう「世界ぜんたいが幸福でなければ------」の時代ですよね。私たちの感性(アンテナ)と人脈を頼りに、観たい、聴きたい、学びたいコトを見つけるのも楽しみのひとつなんです。
編集部:佐々木さんとミティラー地方の民俗画との出逢いは、どんな風だったんですか?
佐々木信子さん:私の友人の紹介があって、1993年にインドからシェフを招いて食文化交流会を開き、1995年にはインドの古典舞踊であるマニプリ舞踊公演を岩泉で開催しました。これは「地方における草の根の国際交流を」と、離島までもインド文化を紹介している民間交流団体「ポストインド祭を考える会」の企画をうけて、主催したんです。この「ポストインド祭を考える会」の事務局が新潟県十日町のミティラー美術館にあるんですね。それで"ミティラー画のコレクションは世界一"とインド政府が認める美術館の存在を知ることになりました。
アンテナにひっかかったことは確かめないといられない性分なもんですから、夏休みを待って、娘をナビゲーター役として助手席に乗せ、十日町まで車を走らせました。そこには、1970年頃、"美しい月"を求めて移り住んだというホンモノの江戸っ子の長谷川時夫館長と、ミティラーの壁画が宇宙に引き込まれるような不思議なエネルギーを漂わせ、待っていたのです。言葉もなく圧倒されましたね。「いつか、必ず、岩泉の子ども達に観せたい」という想いは、ふくらんでいくばかりでした。そして、館長の長谷川さんの全面的なご協力をいただき、岩泉での公開が実現したというわけです。"想い"は実現するものですね。
ボーワ・デービーさんとビムラー・タッダさん |
編集部:岩泉で民俗画展を開催して、来場者の反応はいかがでしたか?
佐々木信子さん:開催中は、インドから来日なさっていた描き手のボーワ・デービーさんとビムラー・タッダさんのおふたりに毎日、制作を実演していただきました。この壁画の描き手はすべて女性たちで、ミティラー地方で3000年にわたり母から娘へと伝えられている暮らしの中にある芸術のようです。おふたりは、この画法を継承するトップクラスの描き手です。
大きな疑似壁(もともとは、家や塀の壁面に描く)に小さな竹の棒を使い木の実や煤からとった自然顔料で、宇宙創造や神話の世界を大胆にそれでいて繊細に、描いていくんですね。見たこともない世界に出逢った子ども達は、私の手を握りしめて離さないんです。その興奮と驚きは、つながれた手からしっかりと伝わってきました。質問ぜめにもあいましたが、共感の言葉を返すだけでいいんですね。子ども達は、子どもだから持っている鋭い観察力と豊かな感性で受けとめていたんです。それを私が子ども達から学びました。
開催中、私も毎日、会場(地元の有志の方々のお力添えで、公民館の集会室は、美術館に変身させていただきました)に詰めていましたが、そのミティラーの世界は、私にとっても、宇宙の透明なエネルギーが降りそそぐ、人知を超えた不思議な空間でした。そこに、賢治の精神世界と相通じるものを感じていたのは、私だけではないと思います。
森に囲まれた小さな町(面積は本州一ですが)のその片隅で、静かにゆったりと子ども達と賢治の世界、その宇宙観を感性でうけとめるひととき。このようなことが"賢治生誕100年祭"にふさわしいと思ったりしてましたね。
編集部:佐々木さんにとって宮沢賢治はどういう存在ですか?
佐々木信子さん:一人娘は、ここ岩泉に生まれ岩手を故郷に育っています。岩手の風土の中で育つんだから、「賢治の世界を伝えておきたい」と、小さい頃から(1〜10歳頃まで)賢治の作品もしっかり読みきかせてきました。
その娘も、いま高校生ですが、これまでに何度か、読書感想文で賢治のことをとりあげました。小学校6年生の時には「親愛なる岩手山へ」と題して、大好きな岩手山に語りかける文体で書きました。その中に町内で農業を営む三浦さんご夫妻のことが出てきます。
三浦さんご夫妻は先祖からうけついだ土づくりからの農法を守り、時代にまどわされることなく暮らすおふたりなんですが、娘のことをとてもかわいがってくださり、娘の百姓の先生なんです。実際、その三浦さんの住む家の縁側に腰かけると不思議なことに「狼森と笊森、盗森」の童話の世界に迷い込んだような錯覚におちいるのですね。娘の文章は、その「狼森と笊森、盗森」の岩手山や森と登場人物の語り合いと三浦さん夫妻の暮らしぶりとを重ね合わせて書き、自然破壊がこの町にも進んでいる現状を心配しています。
最後は「私たちが愚かな人間にならないよう、これからも見守って下さい。そして、『いやいや、それはならん。』というあなたの声がたくさんの人々の心に届きますように。」と結んでいます。
娘たちの世代が、空や雲や風や光と語りあったり、星や森やクラムボンと遊んだり、笑いあったり、宇宙からの存在をみつめたり-------、「賢治の宇宙」を感性でとらえ、ゆっくりゆったり、人間(ひと)の道を歩いてくれたらいいなあと思っています。
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