そこで、"Luz"発行人の小鹿隆治さんとパートナーで編集人の竹久 海さんを、大迫町のご自宅に訪ねた。 大迫町は、早池峰の麓のひなびた美しい景観に恵まれた町だった。
竹久海さん:今年は宮沢賢治の生誕100年祭で、花巻を中心に多くの行事があった訳ですが、地元の人の賢治に対する意識には世代差が大きく、若い人たちはかなり白けていてあまり関心のない人が多いのが現状です。全国からたくさんの賢治ファンがやってくるのに、若い人たちが無関心では、さまざまな行事の意味が薄れてしまう。そこで賢治を好きな人たちをインタビューする企画をはじめたんです。 編集部:たくさんの人から賢治についての話をお聞きになって、どんなことを感じられましたか? 小鹿隆治さん:宮沢賢治という人はどういう人だったのか、詩人だとか、童話作家とか、思想家とかあるカテゴリーで括ろうとしてもどれもしっくりしない。それだけに、インタビューをするとそれぞれの賢治が見えてくる面白さがあります。
竹久海さん:25人の人にインタビューを通じて、自分が作品を読むだけでは感じることができなかった、25通りの賢治の魅力を知ることができたような気がします。 小鹿隆治さん:竹久は子供の頃から賢治の作品を読んできたのですが、私はこれまで賢治を敬遠する傾向があって、ほとんど読んできませんでした。ところが、こちらに定住してから全集を一気に読みました。とても新鮮で、たくさんの発見があります。 編集部:インタビューをしていくと地元の人ならではという賢治の読み方というのは、どんな形で出てくるんですか?
竹久海さん:「風の又三郎」にしても「どんぐりと山猫」にしても、"これは私の町を舞台にした作品"という意見があちこちから出てくるのが面白いですね。 編集部:たくさんの方をインビューされて、とくに強く印象に残っているのはどんな話ですか?
竹久海さん:「雨ニモマケズ」のモデルになった人物がいたという話は面白かったですよ。賢治の父親と交流のあった「斎藤宗次郎」というクリスチャンで、この人は内村鑑三の愛弟子でした。当時の花巻ではクリスチャンを厳しく差別したそうです。小学校の教師だった宗次郎はクリスチャンであるために職を追われて食べるために新聞配達をやり、重い新聞の束を背負って1日40キロも走ったそうです。どんなに迫害を受けても、貧困の中でも宗次郎は人々に慈愛をもって接する人だったという事です。賢治はその姿を目のあたりにして深い感銘を受けたようです。それが「雨ニモマケズ」に投影されているという話でした。賢治より19〜20歳ほど年上だったそうですが、賢治は農学校時代に「春と修羅」を出す前に宗次郎に原稿を見てもらっているそうです。宗次郎は詳細な日記を残しているので賢治との交際も詳しくわかるという事です。
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