編集日誌 No.60より

宮沢賢治の「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」を原作とする演劇「ネネム----おかしなおかしなオバケのはなし」を世田谷パブリック・シアターで観た。
佐藤信さんと藤原正教さんとによる脚本は、舞台で上演しやすくするインターフェイスの部分を書き加えた構造になっている。原作では、ばけものの世界裁判長に出世して、調子に乗りすぎたペンネンネンネンネン・ネネムが、サンムトリの火山が爆発した時に、人間の世界の側に墜落して、ネパールからチベットに入る峠のあたりに姿を現してしまう。今回の脚本では、チベットに墜落したネネムが記憶を喪失して自分が誰だかかわらなくなってしまうが、この青年を介抱する娘が、隣で眠る人が見ている夢を一緒に見る能力をもち、その夢をもとにネネムの生涯を演じ、ネネムもだんだん記憶をとりもどしていくという展開になっている。この記憶を喪失した青年とチベットの神秘的な娘の部分が、脚本で書き加えられているインターフェイスの部分だ。こうした構造の脚本にすることで、劇として無理なく上演できる作品になったといる。
この話はたくさんのおばけたちが登場するので、このおばけたちの有り様の工夫次第で、どんな舞台にもなる。佐藤信さんたちは、フゥフィーボー博士やザシキワラシやアフリカのおばけなどを結城孫三郎さんたちが操る、あやつり人形として登場させるという工夫をして、奇抜で、愉快な舞台をつくりだした。
この芝居を見てから、「ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記」とこれをもとに書き換えられた「グスコーブドリの伝記」というふたつの著しく違ったトーンの作品の不思議な関係について、おのずから想いをめぐらすことになった。ちょっと深刻に考えすぎるタイプのブドリの話がA面だとすると、調子者でおだてに乗って羽目をはずしやすいネネムの話がB面になっている訳で、この両方とも賢治の分身なのだと言える。そして、グスコーブドリの話とネネムの話をあわせて読めば、この両面が補い合って、うまくバランスがとれる。
そして、A面の話とB面の話が同時に進行している様子を想像してみるのも、面白い。ブドリは、冷害から人々を救うために、カルボナード火山島を爆発させて自ら犠牲になるが、その時、ばけものの世界ではサンムトリの火山が爆発して、いい気になりすぎていたネネムが人間の世界に墜落する。
つまり、火山の爆発の所で、天上に行くブドリとばけものの世界から転落するネネムが入れ違うことになる。
賢治さんは、こういう意味深長な謎を残してくれている。