編集日誌 No.84より

  賢治作品の読者には、人生の大事な局面で立ち止まって考えた時に、記憶の底から蘇った賢治作品のある部分から示唆を与えられたという人も少なくないようだ。ガンと闘いながら、若い世代の人たちに市民として科学者としての根源的な精神を伝えるために高木学校を開いている高木仁三郎さんの場合も、この学校を構想するにあたって、「グスコーブドリの伝記」などの賢治の晩年の作品が頭にあったという。
 高木さんは「宮沢賢治をめぐる冒険--水や光や風のエコロジー」という優れた賢治論を書いているが、人生の残り少ない時間を何に使うかを考える際に、ふただび賢治に立ち戻っている訳だ。
 「グスコーブドリの伝記」について、「なぜ、ペンネン技師でなくブドリが命を賭けなくてはならなかったのか。」という疑問が残ると言い、「私は、ブドリが生き残り、ペンネンナームが命を賭けるシナリオへと転換させたいと思う。」と高木さんは書いている。
 言うまでもなく、高木学校の若者たちが生き残るブドリになって欲しいと呼びかけているのだ。

 編集日誌 No.89より

 原子力資料情報室の代表を長く勤め、科学者として市民として原子力発電の危険性をできるだけ客観的なデータを踏まえながら論じてきた高木仁三郎さんが10月8日に亡くなった。晩年の高木さんはガンの治療を受けながら、「オルタナティブな科学者」の育成をめざす高木学校の校長を勤め、高木さんの志を若い人たちに伝えることに残された時間を費やした。
 訃報を聞いて、高木さんがガンの治療を受けながら、病床で執筆した「市民科学者として生きる」(岩波新書)を読んだ。この本で高木さんは自らの生涯を振り返って、市民科学者としての生き方がどのようにして形成されたかを書き残している。
 これを読むと、敗戦と60年代後半の学園闘争という時代が大きく動いた節目が、高木さんの自己形成においても重要な意味をもってることがわかる。1945年の敗戦の時には、高木さんは7歳だったが、大人たちの言うことがいっぺんに変わってしまったために強い不信の念をもった。この経験をもとにして「国家とか学校とか上から下りてくるようなものは信用するな、大人の言うこともいつ変わるかもわからない、安易に信用しないことにしよう、自分で考え、自分の行動に責任をもとう」といった姿勢ができてきたという。この敗戦の経験が、その後の高木さんの生き方のバックボーンをつくったことになる。
 日本の経済が復興に向かい、科学技術に大きな期待が寄せられる状況の下で、高木さんは核化学を専攻し、原子炉を建設中の日本原子力事業に就職する。やがて、放射性物質の挙動は思っている以上に複雑でわからないことが多いのに、そうした点をつきつめるのを異端視する企業の体質に不満をもつようになり、東大原子核研究所に移る。その後、都立大学に助教授として移ったばかりの時に、都立大学にも学園闘争の波が波及する。高木さんは学生たちが問いかけているのは、学問や科学のあり方そのものだという意識が強かったので、「どう封鎖を解除するか」という技術論に終始する教授会に嫌気がさして、造反教官という立場をとるようになる。
 そして、アカデミックな世界に背を向けて、それからいったいどう生きるのかと迷っている時に、大事な指針となったのが、宮沢賢治の言葉なのだという。都立大学の同僚だった独文学者の菅谷規矩雄さんに進められて賢治をよく読むようになり、羅須地人協会をはじめた頃の賢治の「われわれはどんな方法でわれわれに必要な科学をわれわれのものにできるか」という言葉に出会い、強い衝撃を受けたのだ。この羅須地人協会への賢治の取り組みの姿勢に励まされて、高木さんは「職業科学者は一度亡びねばならぬ」という想いに達し、大学を去って、在野の科学者として生きる道を選ぶ決心をした。
 そうした生き方がやがて、原子力資料情報室を中心とした活動という形をとるようになった。そして、晩年の高木学校の構想にも、羅須地人協会のイメージが投影されているようだ。
 晩年の高木さんは、時代が大きく転換するもうひとつの大きな節目に入っていることを感じていたに違いない。しかし、この節目の時期を通じて新しい局面を開いていく仕事は次の世代に託さなければならないと考えていた。「グスコーブドリの伝記」の最後の火山を爆発させて飢饉を防ぐために若いブドリが自分の命を犠牲にするという部分を書きかえて、「ブドリが生き残りペンネンナームが命を賭けるシナリオへと転換させたい」と書いたのは、高木さんのそういう想いを示している。