編集日誌 No.98より

 賢治の「なめとこ山の熊」の淵沢小十郎は熊捕りの名人で、生業として仕方なく熊を殺すが、熊の気持ちがわかり、熊たちも小十郎のことを好きだったという。小十郎の住む山には栗があり、住まいの後ろの少しの畑では稗(ヒエ)がとれたが米は少しもできなかった。小十郎が四十の時に息子と妻が赤痢にかかって死んで、残された老婆と子供たちを養わなければならなず、熊を捕って現金収入を得なければならなかった。小十郎は捕った熊の胆(きも)や皮を町の中の大きな荒物屋の旦那に売りにいくが、旦那の前では小十郎は小さくなってしまい、高飛車の荒物屋に恩着せがましく熊の皮を安値で買いたたかれる。この物語では、こんな具合に、小十郎の生活が具体的に描かれていて、賢治が聞き知っていた熊捕りを生業にする人のことを、とり入れているのではないかと感じさせる。他方、小十郎と熊との間の、たがいに相手に対して敬意をもつ関係は、狩猟を生業にする人たちの感じ方をどれくらい反映し、どれくらいが賢治の想いが投影されたものなのか、という疑問もおきる。
 こうした点について考えるよい手がかりを与えてくれるのが、田口洋美さんによる狩猟文化についての研究だ。田口さんの労作「列島開拓と狩猟のあゆみ」(「東北学」Vol.3総特集・狩猟文化の系譜)では、松橋和三郎というマタギが「なめとこ山の熊」の小十郎のモデルと思われる人物だとしている。松橋和三郎と勝治の親子は、秋田県阿仁(あに)の比立内(ひたちない)出身の旅マタギで、1906年に花巻市郊外の幕館(まくだて)という集落に移り住んだ。近在の人たちはクマ狩りを松橋親子から学び、狩猟組をつくるようになっていった。この松橋和三郎は、賢治とも親交をもった人なのだという。松橋親子が住んだ幕館集落は豊沢川の上流部で、豊沢ダム建設の際に水没してしまったところだそうで、なめとこ山は豊沢湖の奥に聳える860mの山だという佐藤孝さんの発見(奥田博「宮沢賢治の山旅」)とも辻褄があう。
 田口さんによると、旅マタギというのは出稼ぎ型の狩猟民で、ふるさとの村に小さな耕地をもち、その耕作は女房子供にまかせ、旅先の狩猟で現金収入を得るという生活をした。長野県の秋山郷に定住した旅マタギの場合には、旦那と呼ばれる豪商、豪農がスポンサーとなり、買い取った毛皮や熊の胆を温泉地などに卸していたという。「なめとこ山の熊」の小十郎と旦那の関係も、これとよく似た形であることがわかる。
 松橋和三郎や小十郎の旅マタギ型の狩猟のスタイルは、個人や小集団で行動するのに対して、田口さんの「越後三面(みおもて)山人(やまんど)記」(農文協・人間選書)では、山村の村人たちの組織的な狩猟の実態を具体的に知ることができる。
 新潟県朝日村三面は、羽越地方を代表するマタギ集落として知られてきたところだが、県営ダム建設のために1985年に閉村した。そうした事態が迫っていた1980年代前半に、民族文化映像研究所が三面の山村生活を映像に記録する事業を行い、田口さんもこのチームに参加した。「山人記」には、ある面では山の自然と闘い、ある面では自然の力の恩恵をうけながら、つくりあげられてきた多面的な生業や生活について、三面の人たちの肉声が記録されている。
 三面では、もともとクマ狩りにはさまざまな形があったが、田口さんたちが見ることができたのは、デンジンと言われる春に集団で行われる「巻き狩り」だ。一般的なのは斜面にいるクマを追い上げて獲る「マキアゲ」という方法だ。クマの多くは斜面で追われると尾根を目指して登りはじめ、自分たちの移動ルートに戻って逃げ道を開こうとする。こうした行動を予想して、山人たちはクマを待ち伏せして撃つ。しかし、実際には、クマにはそれぞれ個性があり、また人間に巻かれた経験のあるクマは知恵がついていて、なかなか思った通りにはいかず、段取りを見抜いてやすやすと逃れたりもする。それで、三面の源右エ門さんは「クマと人間、比べてもしょうがねぇども、どっこいどっこいどもな。どつちが頭がいいなんてこと一概にいえねぇんだ。------山の獣では一番山の神様に近いところにいるんださがで、山の中では人間よりも賢い訳だ。」と語る。また、「クマ獲るためには、まず、クマになることからはじめねばなんねぇんさ。それができねぇとクマは獲れねぇ。だからクマから学ばねばねぇ訳なんさ」と小池善茂さんは言っている。こういう場合はどう感じ、どう行動するか、クマの気持ちがわからないと狩りはうまくいかないのだ。また、山人たちは、生活のために生き物の命を奪うが、山の自然には「数えきれねぇほど恩がある」という気持ちを持ち、生き物どうしの相互依存の網の目の中に人間もいることを強く意識していた。
 賢治が描いた小十郎は、こうした実際の山人たちの山やクマに対する心根をかなりよく捉えているのだと思われる。