「わたくしといふ現象」と時間

「わたくし」と「風景やみんな」の照らしあい
 「春と修羅」の冒頭におかれた「序」では、<心象の時間>がひとつの主題になっている。
「序」は、この時間を考えるのに、「わたくしといふ現象」とは何かからはじめる。賢治は「わたくし」とは、確固とした実在ではなく、現象の流れの中で保持されるパターンだと考えているようだ。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
この部分の後に、「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける」とつづき、「わたくし=青白い照明」は「風景やみんな」と相互依存的な関係の中で現れ、それによってはじめて「たもたれ」ると考えられている。丹治昭義さん(「宗教詩人 宮澤賢治」)の言い方を借りると、「わたくし=青白い照明」と「風景やみんな」はたがいに照らしあう関係にある。そのため、賢治の「わたくしといふ現象」の探究は、つねに「風景やみんな」とともに現れる「わたくし」を記録するという形をとる。これが、賢治の言う心象スケッチなのだろう。

水や光や風と「わたくし」  例えば、「春と修羅」第1集よりは後の時期のものだが、賢治の「わたくし」と「風景やみんな」の関係についての感じ方は、つぎの部分によく現れている。
「雲が風と水と虚空と光と核の塵とでなりたつときに
風も水も地殻もまたわたくしもそれとひとしく組成され
じつにわたくしは水や風やそれらの核の一部分で
それをわたくしが感ずることは
水や光や風ぜんたいがわたくしなのだ」
これは、「わたくし」という主体がまずあって、その「わたくし」が外部の対象としての「もの」を感じるという関係ではない。水や光や風という流れや形の中に「わたくし」が入ってしまう。そういう感じ方を賢治はする。

「心象の明滅」と時間  こうした感じ方をする賢治にとっては、「わたくし」が時間をこえて同じ「わたくし」であり続けるのは当然のことではない。「序」の冒頭の部分では「いかにもたしかにともりつづける/因果交流電燈の/ひとつの青い照明です」の後に、「(ひかりはたもち その電燈は失はれ)」となっているように、時間をこえて保たれるのは「ひかり」だと考えられている。
「小岩井農場」の「わたくし」にとっても、小岩井農場が前に冬に来た時とは様子が変わっていても、同じ小岩井農場としてありつづけていることが「新鮮な奇蹟」であった。
それよりもこんなせはしい心象の明滅をつらね
すみやかなすみやかな万法流転(ばんぼふるてん)のなかに
小岩井のきれいな野はらや牧場の標本が
いかにも確かに継起(けいき)するといふことが
どんなに新鮮な奇蹟だらう
このように、賢治の心にとっての時間の継起は不確かな感じがあり、<心象の時間>をどう考えればいいのかは大きな問題であり続けたのだと思われる。
ちくま文庫「宮沢賢治全集 1〜『春と修羅・序』『種山と種山ケ原 先駆形A』『小岩井農場』」より

心象スケッチと時間


時 空
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