4次元と心象の時空-----
「春と修羅」から「銀河鉄道の夜」へ

相対性理論と奇妙な時空の感覚
 「春と修羅」の「序」は、つぎのような言葉で結ばれている。

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
「春と修羅」の中の詩には、心象の空間についての探究の面が強く出ているのに対して、「序」はそれらが書きつがれた「二十二箇月」の「時間」を考えることがテーマになっているために、「心象や時間それ自身の性質として」という言い方をしているのだろう。「春と修羅」全体では、別項で述べたように、<心象の時空の探究>が主題になっていると考えられる。
 そして、「心象や時間それ自身の性質」あるいは、<心象の時空>が「第四次延長のなかで主張され」るというのだ。
 この「第四次延長」は、相対性理論に触発された用語だと考えられている。しかし、賢治が相対性理論に影響されて「春と修羅」に出てくる奇妙な時空を考え出した訳ではない。逆に、賢治が感じていた自分にとっての心象の時空が古典物理学的な安定した均質な時間-空間とほど遠く、不均質で不安定で、奇妙な歪みに充ちていたために、相対性理論に強い関心を寄せたのだと思われる。(相対性理論では、宇宙のどこでも同じ絶対的な時間が経過するという前提が否定され、さらに、重力場がある所では、光も直進しない「歪んだ空間」が考えられる。)「序」では、不均質で不安定な心象の時空の特質を「第四次延長」という言葉で示しているのではないかと思われる。
 賢治の相対性理論や4次元の時空に対する関心は、「銀河鉄道の夜」ではさらに具体的な形をとっている。「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」という表現も出てくるし、銀河鉄道の時間と地上の時間の関係に、大きなズレがつくられているのも、相対性理論からきているのだろう。
「青森挽歌」と「銀河鉄道の夜」 この「第四次延長」だけでなく、「春と修羅」で突きつめられた賢治の心象の時空についての把握は、さまざまな形で「銀河鉄道の夜」に受け継がれている。
 とし子が死んだ翌年、賢治は妹の影を追うように樺太へ旅し、「青森挽歌」に記されているように北上する汽車の中で、とし子がたどっていった道筋を執拗に思い描き、「さびしい停車場」を通ってから天に昇っていったと感じている。妹が行った道をたどって北上する列車が、上空の銀河の道を走りだせば、「銀河鉄道の夜」の世界になる。ジョバンニは賢治の分身であり、カンパネルラには言うまでもなく、とし子が投影されている。
 「青森挽歌」で賢治が感じているとし子が行った上方は、「巨きなすあしの生物たち」などの元型的な者たちが現れる空間である。銀河鉄道が行く天空でも、ジョバンニたちは地上と異なる法則下にあるらしい動植物や人に出会う。
「春と修羅・序」とプリオシン海岸  そして、「春と修羅」の「序」では、2千年後には、新進の大学士たちが「気圏のいちばんの上層」に、化石を発掘したり、「白亜紀砂岩の層面に/透明な人類の巨大な足跡を/発見するかもしれません」と言っているが、「銀河鉄道の夜」でも、天空の地層を大学士が発掘している場面が出てくる。銀河鉄道の「白鳥の停車場」での停車時間中に、ジョバンニとカムパネルラが降りると、「プリオシン海岸」で大学士が、120万年前の地層から、くるみや牛の祖先の化石を発掘しているという所だ。
「小岩井農場」と「銀河鉄道の夜」  また、別項で述べたように、「銀河鉄道の夜」のジョバンニの感情の流れの特徴-------すみわたるような孤独感と間欠的に現れる歓喜---------「小岩井農場」の「わたくし」が体験するものと同質だと思われる。
 さらに、「どこまでも一緒に行こう」というジョバンニのカムパネルラに対する想いも、「小岩井農場」の中でそれに対応する部分が、「もしも正しいねがひに燃えて/じぶんとひとと万象といつしよに/至上福祉にいたらうとする/それをある宗教情操とするならば/そのねがひから砕けまたは疲れ/じぶんとそれからたつたもひとつのたましひと/完全そして永久にどこまでもいつしよに行かうとする/この変態を恋愛といふ」という形で出てきている。

 このように、「銀河鉄道の夜」は、「春と修羅」における心象の時空の探究の到達点が受け継がれ、違ったスタイルでさらなる展開がなされていると考えると、「銀河鉄道の夜」についても新たな面が見えてくるのではないかと思われる。


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