2004. 12. 23 編集日誌 No. 119
石牟礼さんが、亡くなった父親の故郷の村を探して天草の山道をさ迷い、途中の一軒家で道を尋ねると、老女がまだずっと先であることを教え気の毒がり家に招き入れ、お茶をご馳走してくれる。その時に「あよまあ、親さまの村をたずねて、こういう山ん中に迷い込んで来らしたとなあ。まあほんに、悶えられてならんよ。」と老女が言う。この言葉を聞いて、「探し求めていた妣(はは)たちのひとりに出逢っている」と石牟礼さんは感じる。「悶える」という言葉が「苦悩を共にする」といった意味で使われているが、迷いこんできた旅人とともに「悶える」おばあさんの心に感銘したのだ(「言葉の秘境から」、朝日新聞社「葛のしとね」に収録)。 「近代」に侵食された「縁辺部」の下層民である水俣病の患者さんたちにより添いながら歩み考え続けてきた石牟礼さんは、水俣について書くためには、「下層民の中にある宗教心の中身」をとりださなくてはならないと考える。その際にも、「悶える」という言葉が、考えを進める重要な手かがりになっている。 「導きの糸」(筑摩書房「乳の潮」に収録)によると、石牟礼さんは山梨県塩山市放光寺の二体の「受苦の極限像の観音さま」を見て、沖縄・久高島の神女たちの儀礼イザイホーを見たいという強い思いをもったと言う。この木彫りの観音像は雨乞いの儀礼で目も鼻も口も損なわれて、手も足ももげ落ちているのに、「えもいわれぬ豊饒と気品」を漂わせていた。この姿に、石牟礼さんは狂死した祖母や水俣病の死者を思い起こした。その後、イザイホーに立ちあって、これと同質の「この国の近代がわが手で滅ぼしつつある、祷る心のすべて」が含まれていると感じたという。 そして、イザイホーや「受苦の極限像の観音さま」と結びつくものとして、「悶え神」という言葉が出てくる。石牟礼さんの地方では、「人の悲しみを悶える老婆」のことを「悶え神」と呼ぶのだ。 水俣では「ぼおっと海り彼方を眺めて」いたりして精神薄弱と言われそうな人たちを「マンマさま」、「位が美(よ)か人」とか呼んで、それとなく崇めていたと、石牟礼さんは「苦海に生きる」(朝日新聞社「葛のしとね」に収録)に書いている。村に事があったり、人が災難にあったりすると、そういう人が「とてもひっそりと深い悲嘆」を表し、「悶えて加勢する」のだ言う。村人たちは、「あの人は悶え神さまじゃけん」という言い方をする。 この「悶え神さま」の話を読むと、私たちは賢治の「虔十公園林」の虔十を想い起こす。虔十はちょっと足りないとみんなに思われているものの、普通の人と違った感覚の鋭さをもつ人だ。やっぱり馬鹿だと言われながら、虔十が木の育ちにくい野原に苗を植えて熱心に育てた杉の林は、大きくはならないものの子供たちのよい遊び場になる。チフスで虔十が死んだ後も両親が林を大事に守る。この林で遊んで育ち博士になって戻ってきたという人物は、周囲はすっかり変わってしまったのに、この林では昔と同じように子供たちが遊んでいるのを見て、「あゝ全くたれがかしこくたれが賢くないかわかりません」と語る。 人の不幸を「共に苦しむ」心の深さをもつ「悶え神さま」のことを知って、虔十をそういう系譜の中に置いてみてはどうかと思うようになった。 2004. 12. 23 編集日誌 No. 118
それと同じように、石牟礼道子さんの作品を読むとともに、チッソが排出した有機水銀が蝕んだ不知火海の「命の賑わい」、それとともに生きてきた人々の豊饒な心の世界、石牟礼さんがその中で育った水俣の貧しい庶民の心の深さなどが鮮明に脳裏に刻みこまれ、水俣と不知火海海域が慕わしい場所になる。 では、賢治と石牟礼さんにはあい通じるどんな資質があるのだろうか? 岩手と不知火海海域はどんな共通の特性をもつのだろうか? 石牟礼さんのエッセイ「乳の潮」(筑摩書房「乳の潮」に収録)は、マレーシアやスマトラに売られて行ったからゆきさんだった老女たちの話が中心になっているが、冒頭の部分は与那国島への旅のことから書き始めている。そして、不知火海海域について深く考えようとして、なぜ、与那国島へ行きたいと思ったのかを語ろうとしている。 石牟礼さんは水俣について、近代化学工場が「おくれた前近代に属する」縁辺部に進出し、「近代」と「前近代」が出会った場所だと考える。水俣病の苦難を負わされた患者さんたちは文字文化と縁の薄い民衆であり、この人々の心の深層を探りあてるために、「見かけの上では無学の---天地の理(ことわり)と人間生活における倫理のなんたるかを、陽と月と潮と土に訊ねて己れの五官で読み解き、----日常から体得」してきた「縁辺部」の人々の暮らしと文化に手かがりを求めようとする。 石牟礼さんの想いは、水俣の海辺にあるアコウとその親類のガジュマルがある「縁辺部」をたどり黒潮の流れを遡るようにして、与那国島へと向かっていったようだ。 他方、東北の「縁辺部」として、石牟礼さんは花巻や遠野を想いおこす。「縁辺部」に深く蔵されたものを現代の知性はどう読み解こうとするだろうかと問いかけて、つぎのように書く。「たとえば遠野は柳田国男により、岩手県花巻は宮沢賢治の表現によって、象徴化された世界の中に民衆生活を再生させ、琉球列島一帯もまた、ヤマトと現地の碩学たちや篤実な人びとの持続的な研究によって、うるわしい伝統をもつ文化の質を顕わして来た。」こうした仕事をなしえた柳田や賢治の知性の特質として、想像力や創造の力に注目した上で、それについてつぎのように言う。「または対象に憑依し、その土地の霊と呼びあうことができる集中力とでも云おうか。『遠野物語』を一読すればただちに感ぜられるが、差し出された元の話を世界化していく柳田の筆の力が、どれほど深く遠野の奥に棲むものたちを呼び出していることか。また賢治の作品が、どれほど賢治という人を依り代にしてひろがる世界であることか。」 ここで書かれている「対象に憑依し、その土地の霊と呼びあうことができる集中力」とは、言いかえれば、賢治のシャーマン的な資質のことだが、じつはこれは石牟礼さんに著しい資質でもある。つまり、近代化が進む日本列島の「縁辺部」の人々や生き物たちの葛藤を深く感じとるシャーマン的な資質という点に、石牟礼さんと賢治の共通項があると言えるのではないか。 しかし、石牟礼さんの思考と比べた時に、賢治の思考の特徴が際だってくるという点もある。それは「近代」への向き合い方での両者の違いだ。 石牟礼さんにとって、日本の「近代」は、チッソの化学工場とその会社町としての水俣に集約される。そして、この「近代」が「近代以前」からの暮らしと生活を引き継いでいる人々に水俣病という苦難をもたしたからには、「近代化」とは忌まわしいものであったことは明白だ。 それに対して、賢治にとっては、「近代」や「近代化」がひとつの事柄や主体に集約されて現れるという具合ではなく、さまざまな形をとって現れ、あるものは畏敬や憧れの対象であり、あるものは嫌悪すべき対象になっている。 例えば「注文の多い料理店」で東京からやってきた成金のハンターたちは、「縁辺部」に侵入してきた日本の「近代」の典型的な形のひとつだが、賢治はこの連中をひどい目に合わせた。他方で、「銀河鉄道の夜」などの「鉄道」への思いのように科学技術が拓く未来に期待を抱いていただろうし、北上川の泥岩層の岸辺を「イギリス海岸」と呼んだようにヨーロッパへの強い憧れの気持ちをもっていた。このように「縁辺部」にあって、「近代化」に対してきわめてアンビバレントな気持ちをもっていた点に賢治の特徴がある。 「近代化」に対する賢治のこの複雑微妙な屈折の仕方は何なのか、という点に興味深い問題が含まれているようだ。 2004. 2. 23 編集日誌 No. 117
この話が心に残っていて、1月の中旬に新潟市に出かける用事の途中で、十日町市のミティラー美術館を訪ねて館長の長谷川時夫さんにお会いした。1月中旬は、まだ大雪が降っていなかったので、豪雪地帯という十日町市も市街地はそれ程雪が積もっていなかった。しかし、ミティラー美術館がある大池は山間地なので、かなりの積雪があった。ミティラー美術館は、過疎化のために廃校になった小学校の校舎を転用しているのだった。 長谷川さんは音楽家で、音楽的な探究から、アジア各地の先住民を訪ねるようになり、ミティラー地方をはじめとするインドの先住民文化にも深く通じるようになった。十数代の江戸っ子だと言うが、月が美しい十日町大池の風土が気に入ってここで暮らし始めた。そして、市が計画した大池でのリゾート開発に反対したのがきっかけで、その対案として構想したミティラー美術館を開館することになった。 長谷川さんは、大池で暮らすうちに、豊かな自然の中に棲む動物たちを身近な生命として感じるようになり、動物を食べるのが嫌でベジタリアンになった。そういうこともあって、宮沢賢治を深く理解するには、ベジタリアンとしての賢治をよく知ることが重要だと強く感じるそうだ。賢治の菜食主義は、健康のためとか言うのではなく、動物の命への慈悲(アヒンシャ)心が強く、動物を食べられなくなる、という類のものではないかという。 長谷川さんは、ミティラー美術の紹介だけでなく、さまざまな形でインドと日本の文化交流の橋わたし役として大きな役割を果たしてきた。今年は日印国交樹立50周年にあたり、その記念事業のためのNPOをミティラー美術館が中心になってつくっている。 記念事業の一環として、2月上旬の札幌雪祭りでの公演のために、インド文化庁が「ラダック仮面舞踊」を派遣することになった。しかし、はるばるインドの奥の山地からやってきて、札幌公演だけではもったいないので、2月下旬の十日町の雪祭りでも公演を頼み、その間、ミティラー美術館に滞在してもらうことになっている。他に関東などで公演をできる場所がないだろうか、というお話だった。 内容に関心をもっても準備期間がないので、ほとんどのところで実現が難しいと思ったが、即応力のあるホールとして、生活クラブ生協が運営する新横浜のスペース・オルタをご紹介した。そして、スペース・オルタの佐藤真起さんが尽力してくださり、チベット交流会などの協力を得て、2月14日の新横浜公演が実現した。 仮面舞踊は、チベット仏教圏に古くから継承されてきた文化であるようで、チベットとブータン、インド北部のラダック地方に伝わっている。ラダック地方は、インド北部のジャンムー・カシミール州の3,500m以上の高地で、チベット系の人たちが棲み、チベット仏教が伝えられている。ラダック仮面舞踊は、祭の時などに寺院の僧たちによって演じられる。今回の公演では、祭の時の代表的な演目を見せてくださった。 踊りを見ながらいちばん強く感じたのは、基本パタンになっている旋回する踊りが 韓国仮面劇の踊りととてもよく似ているということだ。チベット仏教圏の仮面舞踊と韓国仮面劇が近い関係にあるのは、間違いないだろうと感じた。 手元にあった李杜鉉「朝鮮芸能史」を開いてみると、韓国仮面劇のもとになっている百済の山台劇は、西域から日本に伝わった伎楽と同系統のものではないかという仮説が紹介されている。どうもこの説が正しいようだ。仏教寺院で演じられていた山台劇が、その後、仏教を排斥する政権の時代に、シャーマン的な要素の強い放浪芸人たちが伝える仮面劇になり、その過程でさまざまな要素が加わっていったのだと思われる。 ラダック仮面舞踊を韓国の伝統芸能の関係者に見てもらうと、驚くだろう。 また、ラダック仮面舞踊の中の「鹿の踊り」は、微妙な感情がこめられて感銘の深いものだった。そして、鹿の所作や雰囲気は、岩手県の「鹿(しし)踊り」とよく似ているように思った。「鹿(しし)踊り」はどこから伝わったのか、これまでの研究を調べてみる必要があるが、チベット仏教圏の「鹿の踊り」が源流となっている可能性もありそうだ。 西域に強い関心をもっていた宮沢賢治がラダックの「鹿の踊り」を見ることができたら、きっと深く感動したに違いない。 2003. 2. 28 編集日誌 No. 116
「トフティーさんの復学を求める会」 トフティーさんの来日以来の友人である山口さん(「トフティーさんの復学を求める会」の代表)たちは、この事態に驚き、ウルムチを訪れ、可能な限りの情報や判決書などの公文書を集めて検討した。その結果、この判決はまったく根拠がないことを確信したという。 「トフティーさんは新疆の民族関係の複雑さを最もよく知る歴史研究者として、いわゆる独立運動が混乱と流血をもたらすだけであると熟知し、この地の数多の民族文化の共存のために何が必要かを模索していた人」だと言う。 署名を呼びかけるメッセージの結びに「いかなる政治組織ともイデオロギーとも関わりなく、人間のもっとも自然な思考と個人の良心に基づいて協力して下さる方を求めています。」と山口さんたちは書いている。 山口さんたちの活動を見ると、「市民がコトを始める力」の重要性について考えさせられる。山口さんたちにとってのトフティーさんの事件のように、「こんなことが許されてはならない」と感じる出来事が自分や自分の親しい人に起き、周囲の人たちはその問題について何も知らない、マスメディアも取り上げない、そう言った状況のとき、一市民として何ができるか。現在の社会では、さまざまな形で、こうした事態に遭遇している人がたくさんいるのではないか。 山口さんたちは友人のためにウルムチまで出かけ、可能な限り情報を収集し、中国政府の措置の不当性を明かにし、署名活動を行い、2003年1月までに約3,300の署名を集め、国連の人権委員会に働きかけるなどの活動を行っている。 では、日本の大学に在学する留学生が不当な理由で獄中にあるという事態に対して、日本政府は何をしたのだろうか。 日本政府と中国との間には、「人権対話」を行う場がつくられていて、トフティー さんの問題をとりあげるのにふさわしい場であるのに、この「人権対話」は「双方の日程調整がつかないため」に3年近くも開かれていないのだという。 こういう状況を知ると、一市民が「こんなことが許されてはならない」という声をあげた時に、その声に多くの人が耳を傾け、自分なりの判断で納得すれば積極的に賛意を表明し、手を貸そうとする、そういう市民の感応力をもっと高めていかなくてはならないのは明白だ。 そのためには、どうすればいいか。考えなくてはならない点はたくさんあるが、インターネットの特性を活かした「市民メディア」を市民の感応力を高める触媒としてどう育てていけばいいのか、そうした検討も重要だ。 2003. 1. 18 編集日誌 No. 115
「氷河鼠の毛皮」は、いわば「注文の多い料理店」のベーリング版のような話だ。 「注文の多い料理店」では、いい気な金持ちのハンターたちが東京からイハートーブの山に狩猟にやってきて、不気味なレストランに入って山猫に痛い目に合わせられる。他方、「氷河鼠の毛皮」では、「ひとりで黒狐を九百匹とってくる」という賭けをした大金持ちのタイチがイーハトープからベーリング行きの汽車に乗り込む。途中で駅でもないところで停まった汽車に、白熊のような者たちが乗り込んできて、タイチは連れ去られそうになる。どちらの話でも、動物が怖い目に合わせるのは、生きるためにやむをえず猟をするのではなく、単なる楽しみのために動物を殺し傷みを感じないハンターたちである点が同じだ。 中沢さんが「序章」に「氷河鼠の毛皮」をもってきたのは、いくつかの理由がありそうだ。ひとつは、この話の汽車がイーハトープを発ってベーリングに向かって行くということだ。「熊から王へ」の主題のひとつとして、「東北」という概念を「日本の東北地方から北海道、サハリン島、アムール川流域から東シベリアにかけての地帯、さらにアリューシャン列島から北米大陸の「北西海岸部」と呼ばれる地帯にまで広がる、広い領域」に拡張して考えようという提案がある。そこで、イーハトープからベーリングへと向かう汽車の話は、その序章にふさわしいと感じたのだろう。そして、「「東北」的なところのある場所では、ふつうとはちょっと違う「野生の思考」と「現代」とが不思議な結合をおこなっていて、独特な感受性や思考法が発達してきた」というが、言うまでもなく賢治の感受性や思考法はそういう典型的な例と言える。 第二に、大金持ちのタイチに怖い思いをさせるのが白熊である点だ。「熊から王へ」では、拡大された「東北」における神話的思考を解読し直そうとするが、この地帯の暮らしでは熊と鮭が大きな位置を占め、神話や儀礼でも、熊が重要な意味をもつ。そうした主題への入口として、白熊がタイチを連れ去ろうとする「氷河鼠の毛皮」は、ぴったりだった。 「熊から王へ」では、王権が出現する以前の「国家を持たない社会」の思考方法のキーワードとして「対称性」という言葉が強調される。神話的思考が重視する「対称性」のひとつが人間と動物の「対称性」である。例えば、北米大陸の北西海岸のクワキウトゥル族の場合には、夏と冬とで人間と動物の関係が逆転し、「対称性」が維持される。狩猟の季節の夏には人間が動物を殺す。冬は聖なる季節で、森を住処とする自然の主である「人食い」に人間が食べられるという主題をもつ儀礼が行われる。ここには、「もしも人間が動物たちにたいして圧倒的に非対称的な関係を打ち立ててしまえば、いっときは動物であろうがなんだろうが、自然の富はたやすく無尽蔵に手に入れることができるように見えるけれども、そのうち非道な人間の仕打ちに怒った自然は、人間への好意を失って、豊かな富を送って寄こさなくなってしまうだろう」(p.176)という思考法が働いていると言う。 こうした「対称性」が崩れて王権が発生する過程については十分な展開がされているとは言えないが、とても興味深い捉え方を含んでいる。 「氷河鼠の毛皮」で描かれるのは、こうした人間と動物の「対称性」が壊れ、「対称性」を保持することへの人間の配慮が失われた社会である。自分の防寒の装備について「イーハトブの冬の着物の上に、ラッコ裏の内外套ね、海狸の中外套ね、黒狐表裏の外外套ね」と自慢するタイチは、人間が自然の富を思うままにしようする「非対称的」な関係を突き進める社会を代表する人物である。 そして、白熊がタイチが乗る汽車に押し入ってきたのは、「テロリズム」だと中沢さんは言う。「大きな力で押さえつけられて、どうしても自分たちの主張や思いをその理不尽な相手に伝えることができないときに、弱者はしばしばテロの手段に出るもの」だとする。そこまではまあいいとして、議論は、この「氷河鼠の毛皮」の白熊の襲撃事件が「最近のニューヨークに起こった事件を髣髴させる」という所に短絡してしまう。01年9月11日の事件は、「弱者がテロの手段に訴えた」という程、素朴なものとはとても言えない。比較的単純な図式に何でも放り込んでしまいたがる、中沢さんの困った面が出ているようだ。 ところで、賢治の「氷河鼠の毛皮」では、白熊の「テロリスト」が汽車に乗りこんできてからどうなったのか。イーハトブ駅発ベーリング行きのこの汽車の乗客の中には、タイチのようなハンターたちの高価な毛皮とは違って帆布の上着を着た若い船乗りらしい青年がいた。やはり乗客の中の一人だった赤ひげが、車内の様子を熊たちに教えて手引きした。帆布の青年は、赤ひげからピストルを奪って人質にして、熊たちに捕えられたタイチを救う。 そして、青年は熊たちに語りかける。「おい、熊ども。きさまらのしたことは尤も だ。けれどもなおれたちだつて仕方ない。生きてゐるにはきものも着なけあいけないんだ。おまへたちが魚をとるやうなもんだぜ。けれどもあんまり無法なことはこれから気を付けるやうに云ふから今度はゆるして呉れ。」 2002. 11. 8 編集日誌 No. 114
住まいの近くの富士吉田市で9月9日に「銀河鉄道の夜」をテーマにしたDJのライブを行ったので、その時のビデオを「宮沢賢治の宇宙」編集委員会で見てくれないかと言ってくださった。それで、送って頂き、ビデオを見せてもらった。 ライブでは、スクリーンにさまざまな天体写真などをコラージュした映像を映し出し、音は、ずいぶんさまざまな音楽が取り込まれ、変態されていて、いくつもの星雲の渦を旅していくような感じだった。高村さんが「銀河鉄道の夜」から感じとったことを、DJの技法を用いた表現に変換したものであると感じた。 高村さんの作品の残響を感じているうちに思い起こしたのは、宇佐美圭司さんが若い頃に描いた「銀河鉄道」という絵だ。この絵は写真でしか見ていないのだが、写真からも、この作品の力は感じられた。はじめは、たくさんの荒々しく描かれた部分がせめぎあうカオスに見えるが、ある部分をよく見て、形象がはっきりしてくると、部分と部分が反応を起こし動的な意味をもち始め、それがだんだん複雑なイメージになっていく。 「銀河鉄道の夜」で、賢治は「宇宙の多中心性」とでも言うべき感じ方をどう描くか、苦心を重ねている。高村さんの試みも、「銀河鉄道の夜」のそういう感覚を音楽に変換しようとしたのだろうか。 2002. 11. 8 編集日誌 No. 113
多田さんのレクチャーは独特なスタイルで、秩序だったストーリーで聞き手を説得しようとするものではない。心の深い層から現れる混沌とした大きなエネルギーに関わり合う経験の積み重ねを通じて、概念に収斂させすぎると、混沌とした状態の中にある大事なものを取り逃がしてしまうと、多田さんは強く感じている。それで、混沌とした状態が含む不分明なものをそぎ落とさないような、提示の仕方の模索が起きているようだ。 レクチャーの前半では、ドイツで暮らし音楽治療の試みを重ねる多田さんが、今、切実に感じ、考えていることを、スケッチ風に語ってくれた。 後半では、多田さんの音楽治療を記録した音声と映像を使って、心と身体が世界に開かれたあり方を取り戻していく過程を具体的に例示してくださった。この部分は迫力に富んでいるが、私たちが言葉でコメントしても、何かを伝えるのは難かしい。 そこで前半のレクチャーについて、感じ考えたことの一部を記しておくことにする。 心と身体と世界についての感じ方を捉えるために、多田さんは「風」という言葉を多義的に使っている。たとえば、「声の即興」のセッションで、声が身体から外に発せられるとともに身体の内に「入る」ようになる変化を、「身体の中の風が変わる」と言っているようだ。ドイツ語では、Stimme は「声」で、動詞形のStimmenは「調整する」「音を合わせる」になり、さらにその名詞形のStimmungは「調子」「気持ち」「雰囲気」という意味になるという。ドイツ語では、「声」は自分の身体とまわりの世界を共振させる、という捉え方がされているらしい。 また、森の中を歩いていて、何かの気配を感じたりする場合にも、「風が変わる」「空気が変わる」という感じがすると言う。森を歩くことについては、ご主人のフォン・トゥビッケルさんがドイツでのワークショップで話したことを引用して、森の中に入る時に呼び醒まされる「身体を通じて自然を感じとる」感応力について、多田さんは話す。 森の自然は、美しいだけでなく、時には恐ろしくまた邪悪でもある。そういう自然の中で生きてきた人たちは、野生動物のように、自然の中でさまざまな変化を敏感に感じとった。そういう自然に対する感応力をどうやってとり戻すか、と多田さんのご主人は問いかけたようだ。こうした森の中の何かの「気配」にも、多田さんは「風が変わる」という感じがすることがあるという。 これを聞くと、賢治作品の読者たちは、賢治の物語の「風がどうと吹いて」という表現を思い出すのではないだろうか。多田さんの言う「風が変わる」は、実際に吹いてくる風が変わって、それが気象の変化、季節の変化の徴候になるというのと、周囲の状況の変化の徴候、気配の両方が含まれているようだ。賢治も、こういう「風が変わる」「空気が変わる」ということにとても敏感な人だったに違いない。 「風の物語」とも言える「風の又三郎」の九月四日の牧場の場面では、高原の気象の変化とその恐ろしさが、少年たちの目から精緻に描かれている。「風の又三郎」の最終稿にとりこまれる作品のひとつである「種山ケ原」にこの牧場の場面の原型がある。この作品では種山ケ原について、「実はこの高原の続きこそは、東の海の側からと、西の方からとの風や湿気のお定まりのぶっつかりの場所でしたから、雲や雨や雷や霧は、いつももうすぐに起って来るのでした。」と気象学的に語っている。 そして、主人公の達二は、母親に頼まれて兄に弁当を届けに高原に昇っていくが、よく晴れた天気が急変する兆しを小さな「流れの変化」から感じとる。「泉が何かを知らせる様に、ぐうっと鳴り、牛も低くうな」る、というのがその兆しだ。この部分は後に「風の又三郎」に取り込まれて、「みんなが又あるきはじめたとき湧水は何かを知らせるようにぐうっと鳴り、そこらの樹もなんだかざあっと鳴ったやうでした」となっている。 こんなふうに、賢治の作品では、多田さんが言う「風が変わる」「空気が変わる」という状況を微細に捉える。そして、賢治作品の場合も、「風が変わる」というのは、気象の変化や何かが起きる気配であるとともに、主人公の子どもたちの「身体の中の風が変わる」ことでもあると言えそうだ。 また、多田さんは「からだの中を流れる風を感じる」といった言い方もする。じつは、これに似た表現は、多田さんが来日する前に「宮沢賢治の宇宙」編集委員会に送ってくださったメールの中にも出てくる。(「響きの器」について触れた編集日誌No.108を出版者に送ったのを多田さんが読んで、応答してくださった。) 多田さんは、最近、賢治の詩と「再会」する機会があったと言い、その時に書いた言葉を送ってくださり、その中に、賢治の詩を読んで自分の「からだに流れる風を感じる」といった部分があった。 これはどういう感じだろうかと考えてみて、賢治の用語では「すきとほった風」というのが近いのではないか、と思った。 「宮沢賢治の宇宙」の「賢治の作品世界/時空」の中の「モナド的な微塵の感覚と華厳経」 となると、賢治にとって、「すきとほった風」は「わたくし」の内を吹いているのでも、外を吹いているのでもなく、「わたくし」は風とともに吹いている、という感じなのだろう。 多田さんが賢治の詩を読んで「からだに流れる風を感じ」たというのも、賢治が生きた「心象の宙宇」、「わたくし」と「風景やみんな」が交錯する流れに入りこんで、開かれた大きな流れとともにあるのを感じたと言うことではないか。 多田さんの感じ方を知ることを通じて、今まで気づかなかった賢治作品の豊かさを発見できそうだ。 2002. 8. 8 編集日誌 No. 112
この記事によると、賢治作品をベトナム語に翻訳したのは、沖縄県名護市にある名桜大学大学院に在籍するベトナム人留学生、グエン・ド・アン・ニエンさんだと言う。ニエンさんは、5年前に、1年間、名桜大学に留学し、その時に宮沢賢治に興味をもつようになった。そして、3年前にベトナム国家大学ホーチミン市校の卒論に賢治作品をとりあげ、その際に「銀河鉄道の夜」をベトナム語に翻訳した。さらに、昨年から名桜大学に研究員として通い、「双子の星」「カイロ団長」を翻訳した。 今回、ベトナムで出版することになった賢治作品翻訳集には、この3作品が収録されているという。 2002. 7. 8 編集日誌 No. 111
藤木さんは、戦国時代の「コトバタタカイ」という用語に関心をもち、この言葉から、中沢厚さんの「つぶて」の研究で指摘されている、石合戦に悪口雑言がともなってことを想起している。「石合戦にはルールのようなものがあって、一つは、どちらかから呼びかけてもいいのだが、始めに必ず罵(ののし)り合う」のだという。そして、さらに、知人から聴いた新潟の風祭りの行事の悪口合戦を連想して、「悪口はもと神々の言葉でもあったか。」と藤木さんは記している。 つぶてや悪口合戦のような、人々の相互的な関係のうちから発現する荒々しいエネルギーを、個々人の攻撃的な意思の表れとしてではなく、神意の表れと見る感じ方が、中世にはあった。それを踏まえて、藤木さんは、「悪口はもと神々の言葉でもあったか。」と言っているようだ。 カゼノサブローサマという風祭りに子どもたちが川をはさんで悪口を言い合う風習があったという話は、「風の又三郎」の子どもたちの雰囲気を想い起こさせ、この悪口合戦で風やカゼノサブローサマがどういう役割を演ずるのか、ぜひ知りたくなる。 しかし、あいにく、藤木さんの本からは、その点について、具体的なことはわからない。 「風の又三郎」の主題のひとつは、荒々しく、カオスな力をもつ「風」に対する子どもたちの恐れと憧れがいりまじった気持ちにあると言っていいだろう。そして、村の子どもたちが又三郎のカオス的な性格に出会う上の野原(嘉助が馬を探しに行って道に迷い意識が朦朧として、ガラスのマントを着た又三郎の姿を見る)にしても、発破で魚をとる淵(夕立になり雷が鳴り、又三郎に呼びかける歌が聞こえる)にしても、子どもたちが「競馬」、「鬼っこ」などの遊びをしているうちに、「遊びの枠組」から逸脱して、自然のカオス的な領域に踏み入ってしまう。つまり、「遊びの枠組」を通じて、子どもたちと三郎のコミュニケーションがつくりだされ、その枠組みを逸脱したところで、子どもたちがカオス的な自然に踏みこみ、神話的な存在としての又三郎に出逢う。 こんな具合に説明すると、カオス的な力をもつ風を祭る行事と荒々しいエネルギーに「遊びの枠組」を与えた悪口合戦の関係を調べてみたいという意味がわかっていだけるだろうか。 「風の又三郎」先駆形の「風野又三郎」では、「風が世界中に無くってもいい」と言う耕一に、又三郎がその理由を問いつめるところの後で、人間が風たちの「悪口」ばかり言うのは勝手だと又三郎は語っている。このやりとりの部分は、「風の又三郎」に簡略化してとりいれられている。 こういう部分には、東北の民俗の中にある、凧揚げの時に、風の三郎の悪口を言って挑発するといった、人々と風の三郎との関係が反映しているようだ。赤坂憲雄「風の又三郎考」(「物語からの風」五柳書院、に収録)によると、山形県の最上地方の真室川町の凧揚げ唄には、「風の三郎ァ 背病みだ お陽さままめだ カラカラ風 吹け吹け」といった文句があるという。「風の三郎は怠け者だ、不精者だ。それに対してお陽さまはまめだ、一生懸命働いている」と風の三郎を挑発して、風を吹かせようとする。 こういう風の三郎に対する悪口と、新潟のカゼノサブローサマの悪口合戦の関係がわかると、「風の又三郎」について考える手がかりにもなるのではないだろうか。 2002. 6. 4 編集日誌 No. 110
(私たちのこれまでの解読の試みは「賢治の作品世界/時空」に掲載してある。) 「宮澤賢治への接近」(河出書房新社)の著者、近藤晴彦さんは、「春と修羅・序」のそんな「謎」に引き込まれて、賢治作品を精読するようになった人だ。 賢治全集を購入したものの手にとることのなかった近藤さんは、50歳代のある日、古本屋で「春と修羅」の復刻版を見つけて購入し、序を読んで強烈な印象を受け、それ以来、賢治作品の解読に熱中することになったという。 「わたくしといふ現象は/仮定された有機交流電燈の/ひとつの青い照明です/(あらゆる透明な幽霊の複合体)/----」で始まる序を読み、「直覚的に沸き上がってくるのは、レーザーの照射を受けて青白く浮かび出てくる人体の立体像であった。」そして「闇の空間を泳ぐ美女、その美女にこちらから手を差し出すと、手は相手の手を通り抜け、胴体も突き抜いてしまう。現象はある、しかし、"実体"はない。」というイメージを近藤さんは思いうかべた。 この序の冒頭で賢治が言おうとしているのは、「存在と認識の対置ではなく、人間の意識の場に映る現象こそが唯一の真実であり、その現象の連鎖と複合とが人生であり、人間そのものであるという見方」であり、これは現在ではそう目新しくないかもしれないが、賢治の時代には、画期的に革新的だったと言う。そして、その後の議論で、近藤さんは、「わたしくといふ現象」について「意識のスクリーンに照射された」現象という表現をたびたび使っている。 近藤さんの、「意識のスクリーン」、「レーザーの照射を受けて青白く浮かび出てくる」像と言ったイメージに影響されて、私も「序」の冒頭についてのやや突飛な仮説を思いついた。「ひとつの青い照明」を映写機の光源と考えてみたらどうか、という仮説だ。 「風景やみんなといつしよに/せはしくせはしく明滅しながら/いかにもたしかにともりつづける/因果交流の/ひとつの青い照明です」という部分について、「照明」が「風景やみんな」という外部の対象を照らし出している、と読むのが普通かもしれないが、そうではなく、「ひとつの青い照明」が光源となって、スクリーン上に、「風景やみんな」を写し出している、という読み方もできそうだ。そう思うと、「せはしくせはしく明滅しながら」は、コマ数の少ない映画の不連続な映像を想起させるし、「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という表現は、映像が惹き起こすイメージのうごめきを連想させ、とらえやすくなる。 また、「わたしくといふ現象」を映画の映像のイメージでとらえると、つぎの「これらについて人や銀河や修羅や海胆は---」という部分につづく「それらも畢竟こころのひとつの風物です」という表現へのつながり具合も円滑だと言える。 この理解があたっているかどうかは別にして、賢治は、自分が体験する現象を映画の映像のように見る、そういう見方をしばしばする人だったのではないか。「心象スケッチ」という方法は、そういう見方、感じ方から生まれているように思える。 大岡信さんの「日本詩歌紀行」(新潮社)の中に宮沢賢治をとりあげた章「丁丁丁丁丁」がある。その中で、「実際、私の経験についていえば、賢治の詩は、手の切れるような物質の新鮮なイメジと感触に満ちていながら、ふしぎに人をいらいらさせ、不充足感を呼びおこす要素をもっていると思うのである。それはたぶん、彼の詩が、もともと情緒を満足させ、鎮静させる目的で書かれているものではないという事実によっているのだろう。つまり叙情詩とよばれる種類のものとは違う立脚点において、彼の詩は作られていた。」と書いている。そして、その点で、賢治が彼の詩を「心象スケッチ」と呼んでいたのは、正確だったと大岡さんは言う。 賢治のこうした「この国の伝統的な詩歌の体質とは非常に異質なもの」をよく示す例として、少年期の短歌をあげている。同年輩の少年の短歌に較べて、センチメンタリズムの影があまりに希薄で、かわりに、「幻聴的あるいは幻視的な感覚が、ひたひたと歌を包んでいる」ことを、大岡さんは指摘する。 つまり、そうした特異な心的な経験に対して距離をとる姿勢から、「わたくしといふ現象」を映画のように見る視点、それと不可分な「心象スケッチ」という方法が生み出されているのだと思われる。それは、当然、叙情的な姿勢と大きくことなる。 特異な心的な経験を冷静な観察者の眼で描き出していくことによって、賢治の詩も物語も、優れた説得力をもつことになった。 2002. 4. 19 編集日誌 No. 109
「人は自分の宗派だけを崇拝して、理由もなく他の者の宗派を軽んじてはならない。-----なぜならば、他の人々の宗派は何らかの理由で崇拝に値するからである。このように行動することによって、人は自分の宗派の地位を高め、同時に他の人々の宗派を助けることにもなる。-----自分の宗派に対する愛着から、他の人々の宗派を軽んじて、自分の宗派の栄光を高めようとする人は、そのようなふるまいによって、実際には、自分自身の宗派にもっとも深刻な損害を与える。」 これを読んで、宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の第三次稿の黒い大きな帽子の大人がジョバニンが語った、「みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだろう、けれどもお互いほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。」という箇所が思い浮かんだ。 2002. 3. 19 編集日誌 No. 108
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