「宮沢賢治の宇宙」3周年記念 「ディベタリアン大祭」

ディベート2 「銀河鉄道の夜」はSF小説か?


A.「銀河鉄道の夜」がSF小説かどうか考えるのは面白いし、意味がある

B.「銀河鉄道の夜」がSF小説かどうか考えるのは馬鹿げていて、無意味だ

 「銀河鉄道の夜」は、「青森挽歌」に描かれているような、死んだ妹はどんなところに行ったのだろうという賢治の切実な思いの延長線上に生まれた物語だと思います。「銀河鉄道の夜」の世界を描くのに、賢治の豊富な科学的な知識が使われているのは確かですが、これはSF小説の場合の科学に対する関心の持ち方とは違うのではないでしょう。どう違うかは、うまく言えないけれど。とにかく、僕は「銀河鉄道の夜」をSF小説と較べて欲しくはないです。

ヤマネコ@イリオモテ

ヤマネコ@イリオモテさんの発言の中の、銀河鉄道の夜と較べて欲しくない「SF小説」とはいったい、どんなものを指しているのでしょうか?私はいわゆるSF小説と呼ばれているものをあまり読まないのでよく知らないのですが、SF小説の定義って何なのでしょう。
 私は「銀河鉄道の夜」がSF小説かどうかを考えることは、「銀河鉄道の夜」がSF小説に属するか否かを考えることだけでなく、SF小説とは何か、その定義から議論することが含まれていると思います。それが面白いと思うかどうかは個人的な興味に依るので、私が面白いと思っても、他の人がそう思わないかもしれません。しかし、少なくともこの議論は意味のあることだとは思います。SFと呼ばれるものはかなり世の中に浸透しているものです。社会が受け入れたSFとはいったい何なのでしょうか?

センダードン

 センダードンさんが、SFの定義などと難しいことを言いはじめたので、兄に相談したら、英英辞典をひいてくれました。"science fiction"のところには "fiction based on imagined future scientific discoveries or environmental changes, frequently dealing with space travel, life on other planet, etc." と書いてあるそうです。「しばしば宇宙の旅を扱う」となっている点は「銀河鉄道の夜」にあてはまってしまいますね。
 たけど、「銀河鉄道の夜」が、SFの基本になるらしい「将来の科学的な発見や環境変化についての想定にもとずくフィクション」(兄が訳してくれました)という点に合っているか考えてみると、そうは言えないのではないかと僕は思います。
 ジョバンニは夢の中で「銀河鉄道の夜」を旅するのですから、「将来の科学的な発見についての想定にもとづくフィクション」なんかじゃないですよね。ジョバンニの夢という形を通じて、賢治さんは妹が行ったと感じるところを描いているんではないでしょうか。
 なんか、センダードンさんのペースにはまりそうな答えになってしまったかな。まーいいや。

ヤマネコ@イリオモテ

 「銀河鉄道の夜」はSFではない。あえて分類すれば、怪奇小説とでも言える内容を持っていると感じる。最良の友人カムパネルラの死を別の場所で夢として予見もしくは体験している物語とその骨格を考えるなら。
 帰宅すると「白い巾を被って寝んで」いた母との会話。「ラッコの上着をもってくる」と言った父も帰って来ぬのではという読者の不安をかもす記述がなされる。
 最も奇妙なのは、カムパネルラとの「旅」からさめた後に、川辺で息子の死を確信した直後のカムパネルラの父から、唐突にしかもごく日常的な口調で、ジョバンニの父が今日にでも帰ってくることを告げられること。しかもそこで物語は終わる。
 もし帰ってくるとすればジョバンニの父は、この物語のどの登場人物よりもジョバンニにとって身近であり、それゆえに生き生きとした他者でありうると想像されるのだが、帰ってくるというカムパネルラの父の言葉を額面どうり受け取ってよいものかどうか? という迷いが読者のココロの辺境を刺激し、生と死の境界付近にあるタマシイという場所へと再びいざなう仕掛けになっていると読んだ。
 だから、異論は多かろうと思うが、この作品にふさわしい!のは谷崎賞で、ヒューゴ賞やネビュラ賞ではない。
 と、考えることは面白かった。

としひろ

 私自身、SF小説であるか否かについての答えはでていません。気になったのでSF小説の定義に関するサイトを検索してみました。その結果、SFマニアを自称する人々も明確な答えはないようです。一部のSFマニアは、明確ではないにせよ、SFをかなり限定したものとして定義しようとしています。彼らは、ガンダムやウルトラマンをSFと一緒にされることを嫌っているように思えます。そのような議論の中に銀河鉄道の夜を参加させることには私も抵抗があります。
 むしろ、Science Fictionという言葉の持つ意味について考えてみたいのです。SFには「空想科学」(+小説(novels))という訳が与えられていますが、それならimaginary scientific novelsではないでしょうか?空想と科学がどう結びつくというのでしょう。科学的な空想小説ということでしょうか?また、ここでいう「Science(科学)」とはどういう意味なのでしょう。現代の科学でしょうか?未来の科学でしょうか?科学そのものが非現実的な空想でもよいのでしょうか?疑問は尽きません。
 なぜ私がSFの「科学」にこだわるかというと、銀河鉄道の夜に限らず、賢治作品全体が、極めて科学的だと思っているからです。たとえば銀河鉄道の夜が「fiction」であることは異論ないと思いますが、「科学的」であるかは意見が分かれるかと思います。銀河鉄道の夜も確かに賢治の精神世界を描いたものとは思いますが、そもそも賢治の世界観は、仏教世界と科学の世界が融合したものだとおもいます。そのことが如実に現れているのが春と修羅の序文ではないでしょうか。私の考えでは銀河鉄道の夜や春と修羅序文は、作品の奥深いところで科学が基盤を成していると思います。とりわけ相対性理論、地質学、天文学はこれら賢治作品世界の基礎だと思います。
 だから銀河鉄道の夜が科学的空想物語つまりSFなのだ、という結論は短絡的すぎます。でも、賢治作品の深層世界を考えるのにこの議論は有意義だと思います。

センダードン

SFととらえるか?
と言う問題ではないと思います。
こんな事を書くと馬鹿げていると思われる方もいらしゃると思いますが、あれは、実際に宮沢賢治が体験し書いたものであるからです。
賢治の読者は、もっと賢治の言いたかった本質を感じとってもらいたいものです。それと、書き加えますと、実際にイーハトーブの山の上を走っているようです(四次元で?!)。
信じるかは、お任せいたしますが・・・

イーハトーブ

ジャンルについて考えるのは全く時間と労力の無駄

バッハ

私は、SF小説のファンであると同時に賢治の大ファンの一人です。科学という言葉は現在科学技術としてしか意味を持たずSFとは科学技術フィクションのことでは無いでしょうか。賢治の銀河鉄道の夜に描かれた世界観(宇宙観)は、科学技術とは異なった、どこか人間の科学的認識能力を突き抜けた根本的な理性を暗示している気がいたします。

山喜 秀昭

(意味なし、というと語弊があるかもしれません、しかも、論点がずれてるかもしれませんが)
私も、イーハトーブさんのお考えと近いかな?
賢治作品は、風の歌を聴き、木々と語りあうことのできた作者本人の、ごく自然発生的な作品だと思います。
特に何かを狙うとか、複雑な技巧を凝らすとか、そんなこととは無縁なところに出来上がった心象風景であるのですから・・・。

ぶつ吉

 読み手があっての文学作品ですから、人それぞれいろいろな読み方があっていいと思います。SFか否かを考えるのも一つの読み方だと思います。そして、その読み方が、銀河鉄道の夜の本質を見失うことになるとは思いません。
 SFと違うならば、何処が違うのか、なぜ違うのかを考えることが、自然と作品の本質を知ることになると思います。ですから、山喜さんやぶつ吉さんのご意見は、こちら側サイドでもいいのではないかという気がします。

センダードン

 僕としては、ジャンルを分けるのではなく、SFなのか考える事については、意味は、何かしらあるんじゃないかと思います。結構、一人で考える時間が多いので、かってに考えてるんですが、SFのホントの意味ってサイエンスフィクションでしたよね?でも銀河鉄道の夜を僕がはじめて知ったのはたしか、アニメ版の映画を映画館でみたのが初めてなんですが、そこで親に買ってもらった原作本を母親に漢字を教えてもらいながら、読みましたそのときに何か、読み終えてから、真っ暗闇の中の青白い光の暖かく、柔らかい何かすごくファンタジーなイメージが残っているのです。だからSFはSFでもフィクションではなくファンタジーのFならSFかな?なんて。なんか論点ずれてますけどそう思うんです。そう言うイメージって考える事は非常に良い事だと思うんですよ、僕の母親が僕に見せてくれた初めての映画があの映画であった事は今でも感謝してます。僕も自分に子供が出来た時、アノ映画を見せて想像力豊かな子にしたいと想います。だから一応意味ある派と言う事で、、、

平野 裕紀

 そもそも小説を分類するのは作者にも読者にも関係なく、ただ本屋さんに並ぶとき探しやすいとか、人と話すとき説明しやすいとか、そんな合理的な考えの中で生まれたことではないでしょうか。そういう意味では確かに意味があるかもしれませんが、賢治の銀河鉄道の夜だけに的を絞った分類では、意味はないと思います。

タツヤ

 この作品について語り合うことは賢治作品の研究の発展につながるのではないでしょうか。私は岩手県に生まれ現在も県内に住んでいるので幼い頃より賢治作品にふれ、なかでも銀河鉄道の夜は小学生の頃から長い間(といってもまだ高校生なのですが)私の愛読書であり続けている作品です。賢治は私の憧れであり最も尊敬する人物のうちの一人。彼についての研究が進むことはとても喜ばしいことだと思います。

まりまり

初めて書きこみます。かとーGOと申します。
銀河鉄道がSFかどうかを考えることに意味があるのか?とのテーマですが、SFとして読んだ場合、大変面白いと思うので、SF云々について語るのは大いに意味があると思います。
銀河鉄道の夜のエッセンスはけしてSFだけではないです。
それを踏まえて、例えば、銀河鉄道は惑星探査機でもなく、宇宙戦闘機でもなく、星と星を結ぶ鉄道です。定期便です。
これはすごいことです。 もしも、未来に宇宙を一般人が行き来できるようになったら、やはり自家用宇宙船ではなく、惑星間の定期便になるでしょう。でも、現在そんな設定のSF見たことあります?
スターウオーズで定期便飛んでましたでしょうか?
銀河鉄道はその設定だけで、超一流のSFの要素があります。
私は調べていないですが、賢治が銀河鉄道を書いた時点で、他に宇宙旅行をテーマにした作品は世にあったでしょうか?
間違い無く言えるのは、その時代ロケットなんざ飛んで居ないと言うことです。

最後に締め、銀河鉄道の夜は日本最高のSFとなる要素があります。でもSFってのが銀河鉄道の夜の魅力のほんの一部でしかないところが、すばらしいです。少々論点からずれました。 銀河鉄道の夜のSF云々について考えることは、その魅力の一端について考えることです。大いに意味有り。

かとーGO

そうだ。そうだよ。超面白い。馬鹿げてなんかない。

太公望

SFの定義?
難しいです。ただ、良質なSFとそうでないものはあります。
昔アビスと言う映画がありました。深海を舞台にしています。そのラストに正体不明の透明なくらげみたいな生物が、現れます。それを見ていた私の姉は、くらげじゃなくてイルカだったら、、、、との感想でした。しかし、そんな深海にイルカが居るわけはなく、前人未到の光も届かない(生物は色をもつ意味が無いので無色になる。)場所に新種の無色の生物が居るからこそ、あの作品はSF名作なのです。逆にイルカでも現れた日には絵的には美しいのかも知れませんが、私はそんな作品をSFとは呼びません。SFの定義が分かれるのは、観賞者の科学的検証に耐えれるか否か?作品の中の科学的考察が納得できるものであるかどうか?だと思います。当然、個人差が現れると思います。

銀河鉄道はSFか?とのテーマは、作品中の科学は正しいものか?かつ、おもしろいものなのか?と言うことではないでしょうか?

水素より軽い、、、や水晶でできた砂、、、等の表現での科学の使い方は宮沢賢治独特のものです。他に類を見ません。銀河鉄道の科学は面白いのです。ちょっと論点からずれました。スイマセン。(砂(石英)の結晶は石英ガラス(よくある透明な砂)ただし、極低温で結晶化させると、水晶になる。(ガラス玉と水晶玉は同じ元素で出来ています。結晶構造は違います。)すなわち、”水晶の砂”はそこが極低温であったことを表している?)

  

ジョバンニの心の中を的確に具現化するための「場」として銀河が選択されたのであり、SF小説とは趣が異なると思う。

持木由真

そりゃあ、SFか否かと問われれば、SFではありません。でもSFかどうか考えることに意味があるかと問われれば、大いに面白いし意味があるとおもいます。銀河鉄道のテーマは一つかもしれません。でも読者が感じる魅力は非常に多面的です。その魅力の一端について考えることは面白いと思うのですが、いかがなものでしょうか?ちなみに私も銀河鉄道の夜がSF小説だとはさらさら思っていません。

かとーGO

 通りすがりのSFファンです。面白く読まさせていただいています。
 個人的には、かとーGOさんの意見に賛成。「銀河鉄道の夜」が、SFかどうかということは、賢治自身にとってはたいして興味ないことでしょう。
 だけど、SF小説からは、「銀河鉄道の夜」がSFかどうかということを考えることは非常に意味あることだと思います。実はSFにはいまだに定義というものがないので、自分達がSFと呼んでいるものがなんであるのか考える意味があるので、ちょうどそれが試される作品であるので。
 また一般の人たちにとっても、はたして、宮澤賢治の描いたイメージは、普通のSF小説とどこかちがうのか考えるのことは、賢治の作品をより深く考えることになるので意味あることではないでしょうか。
 ちなみに私的には、SFじゃないと思っております。

KIM

 楽しい議論ですね。
 私の考えですが、SFだと思います。
 SFの意味は(一応)「空想科学小説」となっており、「この列車は、動くように決められているから動く」なんて台詞は、りっぱな「空想科学」ではないでしょうか?
 でも、ここで議論して楽しんでいる人の殆どが、「どっちでも良い」と思われていると思います。
 むろん、私もその一人です。。。

八周

 この物語は、ジョバンニの「夢」(文字通り寝てみる夢)を綴ったものと考えられる。「夢」は意識の延長である。ジョバンニの臨死体験という人もいるが、臨死体験も意識の延長にすぎないのであって、霊的なものや超現実的のものではない。
 宮澤賢治の作品は、作品の裏側にかくされた意味を分析しながら読んでも楽しいし、単純にそのまま読むのもいい。私の場合、銀河鉄道はいつも後者の読み方である。

たかしょう

 初めて書き込みます、布山といいます。僕自身は、銀河鉄道の夜がSF小説であるとはほとんど考えたことがありません。SF小説と云われるものはあまり読んでいませんが、イメージとしてのSF、つまり「空想科学」というものに分類されるものではないとゆう気がします。ただし、これは僕自身のイメージ上での考えです。人によってイメージの捉え方は様々で、それは作品に対する思いの深さがひどく関係してきます。そして、作者自身の自分が書いた物に対する捉え方によっても、その小説の分類は変化します。僕は「銀河鉄道の夜」を、初めに図書館にあったますむらひろしさんのマンガで読みました。そのせいか、イメージ上で「銀河鉄道の夜」は小説というより‘童話’だと思ってきました。恥ずかしながら、あそこまで沢山の科学的知識がちりばめられた物語を読みながら、それがSFだと、科学的だという考えには至りませんでした。僕は確かにSFだという考えはしていませんが、そう言う考えもあって、そう捉えて読むということに気付かされて嬉しいと思いました。だから、この議論は意味があると思いましたこの作品が幻想的で捉えどころが ないからこそ、そこに自分自身で考えをはさむ余地があります。心の中の心象スケッチそれ自体がこの物語に表れているのであり、それが今の時代に分類として登場した啼に当たるのかどうかは人それぞれの考え方次第です。ある人にとっての作品イメージという風景をもし表すとした場合に、そのある人はSFという言葉をつかうのかもしれません。SFの定義については何も発言できませんが、イメージ上で捉えることは可能だと思います。(それは単なる思い込みかもしれませんが) 最後に、僕は小説という言葉よりも‘長編童話’のほうがしっくりきます。そして、SFが‘空想’ならばこの物語は‘幻想’だと思いました。

布山

 ドラえもんがSFであるならば、「銀河鉄道の夜」もSFであると思う。ドラえもんは現在の科学とか関係なしにあったらいいなと思うもん(タイムマシーンやどこでもドアなど)が登場する。それって、「銀河鉄道の夜」のなかで賢治が描いてることと同じではないのかな?願ったら叶う「幻想四次元の空間」てドラえもんがいるのと一緒のような気がする。そこで、私は、ドラえもんはSFであると考える人間なので、よって、「銀河鉄道の夜」はSFであると言えると思う。  「銀河鉄道の夜」をドラえもんと一緒にするなとお怒りのかたもいるかもしれないがそこはご了承ください。こんなこと考えることができるだけでも意味あると思っています。

わん

SFではないと思うが無意味だなどと決めつけてしまうのでは、あまりにおもしろくない。いろんな可能性を考えるのはおもしろい。ここではSFのほうが程度が低いように書かれているがそんなふうに頭をかたくしていたらだめですよ。

松屋カンナ

私は科学的に考える性質です。星新一さんしか読んだことないけど、SFも好きです。「銀河鉄道の夜」とSFの違いですが、SFは科学的なものですから突飛なことが起こっても、それに尤もらしい説明が付かないと納得できません。例えばその辺に置いてあったコップの水が何の説明もなしに毒薬に変わってもらったりしちゃあ困るのです。「博士は新しい薬を発明した。」とかいう前フリか、どんでんがえしが必要なのです。それが「銀河鉄道の夜」には必要ないのです。説明なしにやられても、そうか。と思える。しかし・・・知ったか な意見でした。

松屋カンナ

賢治の代表的作品として最も愛好しています。SF小説ではなく、宗教、あるいは哲学的意味をこめた傑作です。

古谷 睦

読む人によって、いろいろな受け取り方があると思う。子供のころ始めて読んだ時はちょっと怖いような冒険もののように感じた記憶があります。中学生のころ読んだ時は涙しちゃいました。とーってもいいお話にはかわりないんだもん。だから無意味派かな。

てるちゃん

日本のSF−短篇集− 古典篇 叢書名 世界SF全集 34
出版者 早川書房 出版年 1976 石川喬司/編

こんにちは。
「銀河鉄道の夜」は上記の本に収録されていますので、この本ではじめて読んだ人もいるはず。 もっとも、足穂はともかく、中島敦、坂口安吾、太宰治、らのふつう幻想文学といわれる作品もいっぱいはいっている妙な本です。 バラードのこれからのSFはインナースペースを描かねば、という当時の論調の影響がかんじられる編集です。

さて私見ですが「『銀河鉄道の夜」は昔ながらのハードSFの一面もなきにしもあらずでは、というところです。
失われた「ケンタウル村」のシーンを想像するのが楽しみです。だいたいなぜにケンタウル祭なんでしょうか。いったいどういう人たちと会ったのかとか思うのですが、もしかして、当時最も近い恒星といわれていたアルファ.ケンタウリ、したがって宇宙人の住んでいる可能性もあり、という想いは賢治にはなかったのかしらん、とか思ってしまいます。
また、しばし登場する「三角標」ですが、これはいまだ未完成の銀河立体全体の三角測量計画を連想させます。
暗黒星雲、石炭袋の穴は、当時はブラックホールという誤解的理解だったのでしょうか。
プリシオン海岸のシーンは、銀河に地層のごとき生成史があると読めばけっこうおもしろい、もとのイギリス海岸はちゃんとした地学ですが。
相対性理論で「銀河鉄道の夜」を読んでいるファンもいますが、それはいきすぎのような気がします、私が理解できないだけかもですが。

宇宙飛行士の毛利さんは「よたかの星」がすきな賢治ファンなんで意見がききたいところです。「銀河鉄道の夜」を読んで宇宙飛行士などになったという証言をもった人がこれからでてくれば、.「銀河鉄道の夜」は文句なしにSFというところかもしれません。

rainywoods

初めまして三越と言うものです。このページを見て初めて宮沢賢治ってSFにもできるんだなあなんて思いました。というのも私はジャンルわけなんぞ一人一人の認識の問題だと思うのです、宮沢賢治は宗教的なものとしての見方の方が私としては強いですね。というと意味ある派と変わりないのですし、そもそも馬鹿げてるなんて言う方こそそれですよ。では何故意味なし派かと言うと、ただ単にこっちが少ないからなんて不純な理由です。私は意味の在る無し議論に参加した時点で(というか読み終えた時点で)この作品に何らかの形をつっくちゃっていると思うんですよ、その辺に議題提示者の意図が感じられたりって勝手に考える生き物でって話が違いますね。
私の銀河鉄道の夜は三つあります、初めて読んで感動して映画からマンガまで読んだ頃、同名の歌がはやりだしてなんだか嫌いになりフランドン農学校の豚や虔十公園林こそ宮沢賢治だなんて思ってた頃、角川版の解説を読んで改めてこの作品の意味を考えた頃、まとめちゃうと時間や環境なんかで色々意味を考えちゃいますよね。 こんな意見ディべートでは反則ですが。誰か見てくれるといいなあ(12月7日)

匿名

意味がないですね。書かれたものに、境界なんかないでしょう。

藤本克己

何事につけ、宮澤賢治の場合は考えるのはとても意味のあることだと思います。私個人はSFとは思ってませんけどね。確かに、作品は作者の科学的素養の上に成り立っていると思うので、その点ではSFなんでしょうけど、作品を構成する要素は科学よりも、生死についてもっと精神的な哲学的なことの方ががいっぱい出てくるので、SFだとか純文学だとかそういったジャンルを超越しています。

ブル蟹炉

私は銀河鉄道はSFとは感じませんでした。科学的な空気に包まれる章もありつつ、この作品は本当に幻のようで、夢のようで、賢治さんの心の中を覗いているように想います。
でも、SFかどうか、という論議はとても意味があると想います。そして、この皆さんの互いのディベートに反対の意見がある時点でもうそれは熱い熱い立派な論議ではないでしょうか。SFと感じるか否かは別として、決して無意味ではないと想うのです。

むぎ

SFに分類するのは苦しいでしょう。サイエンス・ファンタジーと呼ぶのにも無理がある。幻想小説が近いでしょうか?私は宮沢童話でいいと思います。

やまねこ

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