「宮沢賢治の宇宙」3周年記念 「ディベタリアン大祭」

ディベート1 「ビジテリアン大祭」のつづき


A.「ビジテリアン大祭」の反・菜食主義の主張に説得力があると思う

B.「ビジテリアン大祭」の菜食主義の主張に説得力があると思う

 あの話の中で展開される議論は、 ビジテリアン側の、「やらせ」だと作品中にはっきり書いています。
 話の中では、チラシがまかれて、翌日の大会での意見発表があり、ビジテリアン側の反論があって、最後にはビジテリアン反対派というのがじつは「やらせ」だったと明かされるのですが、一つだけ、チラシがまかれたままになっているのがあります。
 それはこんなのです。

「ビヂテリアン諸氏に寄す。諸君がどんなに頑張って、馬齢薯とキャベヂ、メリケン粉ぐらいを食っていようと、海岸ではあんまりたくさん魚がとれて困る。折角死んでも、それを食べて呉れる人もなし、可哀そうに、魚はみんなシャベルで釜になげ込まれ、煮えるとすくわれて、締木にかけて圧搾される。釜に残った油の分は魚油です。今は一缶十セントです。鰯なら一缶がまあざっと七百疋分ですねえ、締木にかけた方は魚粕です、一キログラム六セントです、一キログラムは鰯ならまあ五百疋ですねえ、みなさん海岸へ行ってめまいをしてはいけません。また農場へ行ってめまいをしてもいけません、なぜなら、その魚粕をつかうとキャベヂでも麦でもずいぶんよく穫れます。おまけにキャベヂ一つこさえるには、百疋からの青虫を除らなければならないのですぜ。それからみなさんこの町で何か 煮たものをめしあがったり、お湯をお使いになるときに、めまいを起さないように願います。この町のガスはご存知の通り、石炭でなしに、魚油を乾溜してつくっているのですから。いずれ又お目にかかって詳しく申しあげましょう。」

 「健康派」にはあまり関係ないことですが、「同情派」だったと思われる賢治にとっては、これは本質的な問いだったのだと思います。
 以上、ある人へのメールからコピーしました。

渡辺 宏

 この世の中で最も大切な理念は「いのち」を守ることです。人間には、地球に生きている全ての生命について、その存在を守ってゆく使命があるのではないのでしょうか。
 私達は自身が生きていくために必要な最小で最低限度の殺生しかしてはならないと思います。快楽のために他の生きもののいのちを奪ってはいけないと思います。

あむ

 干鰯のことをインターネットで調べてみたら、江戸時代に綿の栽培に使われていたようです。庶民の着る物はそのころもまだ麻が普通だったけれど、関西以西で綿花の栽培が盛んになってから、綿織物が普及していったらしいです。綿の栽培には肥料がたくさん必要なので、九十九里でとれた鰯や北海道でとれた鰊を船で運んだそうです。九十九里から東北にも出荷していたようですが、たぶん藍の栽培用だと思います。
 綿はお金になる作物だから肥料にお金を使っても採算がとれるのですが、野菜の栽培に買った肥料を使っていては、もうけがでなかったのではないでしょうか。昔の肥料といえば、腐葉土や下肥でしょう。とすると、干鰯を使って栽培したキャベジをたべる機会は、本当はなかったのでしょうね。だから、後からの議論にもでてこなかったのかもしれないですね。

もとえ とも

 私は、菜食主義者ではなく、かつ菜食主義者の主張にそれほどの説得力があるとも思えません。が、敢えて説得力のあるものとしてこちらに立たせて頂きたい。
 あむ氏によればこの世で最も大切な理念は「いのち」を守ること、ということでしたが、むしろ「命をつなぐこ」とこそ重んじられると思われます。人によらず命あるものは、ある種むやみに「種」というものを次の世代へとつなげている感があります。それは、自種の繁栄と他種の駆逐あるいは共存の道を延々と歩き続けることに他なりません。共生の道を世界規模で模索しようとしている現在において、その目的もまた成長と繁栄なのです。
 成長の先には何があるでしょう。人は間違い無く老い朽ちてやがて絶えます。それは、成長するほど終焉に近づいているということでもあります。ならば私達は、死期を早める為に肉を獲り魚を猟り草根を採り続けては、他の命を取り自らの死を招きこんでいることになる。それはいづれ沈む泥舟に重荷を積むが如きであり、それは重いほどよく沈む。
 私達は、思考という高度な判断能力を手にし繁栄を築き上げてきました。それはまた、本能の抑制も可能にしました。ならば、私達は無為な成長を止め重荷を減らすべく衰退への道を歩むべきなのです。そして人は、水のみにて生きねばなりません。その第一歩が菜食者へとなることなのでその第一歩が菜食者へとなることなのです。他の命を奪うことなく、自らを生きながらへさせ、滅亡を長引かせる。実に理想的であります。
 更にこのことは現実することも容易いのです。ただ一つの犠牲として日々の幸せを捨てれば良いのですから。
 この暴論に意見を下さい。

玉野靖芳

 賢治は、理論的には肉食を認めていたと思います。必要ならば食べてもいい、そのかわり自分の身が他の命のために必要となったときにはその身も投じるなら、、、そういう考えがあったと思われます。 でも、賢治は感情的な面でどうしても肉食を「かわいそう」と思わずにはいられない人でした。しかもその感情に対してしめっぽくて陰気なことかもしれない等という劣等感すら持っていたのかもしれません。それでもやっぱり賢治はこの物語の菜食主義者の主張のように考え、その感情に従おう、と決心していたのでしょう。 でもこれはこの「感情」(必ずしも万人には共通しない)を共有できる人の間でしか成り立たない理屈であると賢治自身感じていて、それだからこそこの物語は茶番劇のような結末に終わったのでは、と思われます。
 ちなみにそういう私は普段あまり肉は食べません。それは自分で牛や豚を殺すという行為を実行できそうもないからです。殺生の痛みに耐えられないのにその肉を食べるということには抵抗があるからです(これは菜食主義の方の主張になってしまいそうですが)。

正田

 賢治さんは、肺病患者だったので、ほんとうは動物性蛋白質を積極的に食べた方がよかったのではないでしょうか。賢治さんの菜食主義がどの程度、厳格なものだったか知りませんが、もし、動物性食品を食べなかったために寿命を縮めることになったのだとすれば、賢治さんの考えを世界を広めるためにも、不幸なことだったのではないかと思います。
 食生活は、あまりひとつの原理原則にとらわれずに、なんでも食べるバランス感覚が大事だと思います。

コモンセンス

 食べられるものは何でも食べる志向が私には嬉しい。

バッハ

 私は、今から30年前(学生時代)に動物や植物を食べなければ生きていけない人間という自分に嫌気がさして、一週間絶食したことがあります。当然身体を壊してしまい、こんな無茶は止めましたが、いまだに根本的な結論を持たないまま社会人を続けています。今農業部門の技術士をしています。

山喜秀昭

 温暖化ガスを排出する原因として、家畜のおならがばかにならないという話を聞いた。世界的に牛肉の生産量が増えると、そういう問題もおきるらしい。やっぱり、先祖代々肉を食べて生きてきた人たち以外は、肉食に偏りすぎない方がなにかといいらしい。しかし、ぜんぜん食べないというのも偏ってるんじゃないだろうか。

まさお

 子供と一緒に「ドリトル先生」のビデオを見ました。
 Dr.Dolittleは仕事の都合で菜食主義にしているそうです。肉の焼ける匂いをかぐと我を忘れて食べたくなるのだが、患者との信頼関係を保つために努力しているようでした。肉はおいしいけれども、殺される動物のことを考えると、食べたい気持ちも消え失せると歌います。なにしろ動物と話が出来るのですから、彼等の人格(?)を尊重しています。単なる食糧とは考えられない関係なのです。そして周囲の人たちに、野菜だけでも栄養は満点!! と言っています。原作にそういう記述があるのかわかりませんが・・・。
 知人にもそういう菜食主義者の人がいます。彼もドリトル先生や賢治のように、食べられる側の気持ちを感じられる人です。

 別のシーンでは、「人間はなぜ動物に感謝せず、ひどいことを言い続けて平気なのか。ろばのように愚鈍とか、とりのようにおしゃべりとか。」(だったかな)人間のマイナスイメージを動物にたとえることわざがこんなにたくさんあったのかと驚くくらいならべたて、嘆きます。それほど人間は、いろんな動物とかかわりあって生きているということなのでしょうね。

 私は、魚があれば肉はたべなくても平気というくらいの人間ですが、心のもちかたとして、菜食主義もいいなぁと思いました。

たえこ

  感情的なことは置いといて、植物でも動物でも、必要最低限の物は食べて生きましょうよ。だってどっちも生きているんですから・・・

タツヤ

精神というものを前面に出して人間のあり方を説けばどうしても菜色主義の主張に分があるようになってしまうものと思われます。「神の愛」とか「仏の慈悲」を持ち出されては、反菜食主義者たちは、「愛」や「慈悲」を解しないもの達とみなされてしまうことになるのではないでしょうか。私達は菜食主義の主張を正しいと思いつつも「泣きながら」とまでは言いませんが、せめてあらゆる食べ物を必要だけ、残さずに食べることを義務として生きてゆくしかないように思います。

cannedy

野菜は、美味しいからこちらの意見に賛成です。

クジラ

偏った食生活は、良くない。栄養のバランスということを考えれば、野菜も肉も食べたほうが自然。

持木由真

古い話(20年ほど前)になるのですが、アフリカのとある水辺で実際にあったこととして少年誌に掲載された写真のことを思い出しました。一羽の水鳥がワニによって片足を食いちぎられ、なおも襲われようとした瞬間、カバが現れワニに向かって突進、追い払った後も水鳥のかたわらを離れず、まるで見守るかのようにしていたとの解説がありました。
このことは、動物もまた他の生き物について思いやる「こころ」をもった存在であることを示しているのではないのでしょうか。
多くの哺乳動物は私達と同様喜びを感じ、苦痛を感じるこころを持っていると思います。
その動物に対し私達はモノとしてしか扱わない数々の行為を行っています。それが実際にどのようなことなのかよく知らなければならないと思います。動物実験など毎日止むことなくそれはつづいているのです。

あむ

一時期、私は菜食主義生活をした。とてもおだやかな気持ちになれたが、反面、闘争心が抜けてしまった気がした。
 菜食主義は、心を穏やかにするが、ハングリーでありたいときは肉だなと思う。
 持木由真さんの、混食が自然との意見に賛成です。

ピカリ

作品中を見るかぎりあっちに説得力がありますね。でもテーマが個人の菜食についての意見に変わっているようなのでこっちに書きます。カバは鳥は救うかも知れませんが、恒温動物なので体温を保つ為、植物の命を大量に奪います。ワニは鳥を食べますが、少量です。カバのほうが罪は重い。哺乳動物も食べる以外の目的(ただの悪戯、おもちゃにしたり)で他の動物を殺します。私は家畜化でき、食べても生態系に影響を与えない動物に限り、食べて良しとしています。現在の世界の食料事情を考えると、供給が需要に追いついていません。私達は誰かが餓死したおかげで生きています。菜食のみにすることは不可能であり、そんなもんは自己満足で、現代人の贅沢です。ただし、動物から香料や毛皮を取る行為は許されるものでは無く、言語道断です。また他に与える影響が大きいもの、クジラなどは絶対数に関係なく殺してはいけないと考えています。自然界の動物ですら、悪戯に命を奪うことがあるのですから。知性を持った人間が食べる以外の目的で動物を殺すのは嫌ですね。私も一時期菜食に目覚め、植物のみを殺していましたが、あれは体に悪い。私の場合は心は穏やかになれなかった。植物を殺しやすく、動物を殺しにくいのは人情でしょう。こころをもって無いから云々てのは、結構危険な発言かもしれません。同様に生物でなくても物は大切にしましょう。動物を殺したくないこころも、そんなとこだろうと思います。わけわかんない発言でスイマセン。ここのテーマ自体が珍妙なので、難しい。 最後に玉野さんはご自分で暴論とおっしゃっているので、ご本人も暴論と思っている文を書いたのでしょう。どの辺を暴論と思ってるのかご本人に聞いてみたい。長文スイマセン

ハラボテマッスル

あんまり関係ないかも知れませんが、人間は肉食でも菜食でもなく本来は種食動物だと思います。ほら賢治だって言ってるでしょ。玄米4合と味噌とって。梅干しとかごまとかみんな基本は種。後はおかずです。でも本当は何を食べても生き物を殺したことになる。菜食主義者のあなただって、野菜殺してるでしょ。人間は生き物の命と引き換えに自分を長らえる。それが原罪ですよね。とっても罪深い。でも、その生き物たちは、死んじゃったんじゃなくて、私たちの中で永遠に生き続けるって考えたら、少しは気が休まるんじゃないでしょうか。銀河鉄道のさそりみたいに。

みったん

 私は家畜の肉は食べませんが、卵どうふあさりしじみ鰯さんまプロセスチーズかまぼこなどはたべますので、菜食主義の方たちを代弁する資格はないと思っていますが、菜食のかたがたを尊敬する者としてあくまで個人の見解として述べたいと思います。

1.ワニとかばの罪について
 カバの話をとりあげた趣旨は、人間以外の動物にも「こころ」があることの例示です。動物に罪の概念をあてはめるのは不適当です。肉食動物は、他の動物を捕食することに対して罪の観念をもたず、波打ち際でオットセイに襲いかかり何度も放り上げて戯れるシャチ自身にも全く罪の意識はないのです。それゆえに罪の軽重を問うことはできません。
 ついでに、大量に草を食べるからとの論法では、大量に草をたべる牛は罪が重く、それを企てている人間がもっと罪が重いことになりませんか。

2.野菜は食べるが、肉食に抵抗を感ずる理由
 私が野菜を食べるとき、食べられる野菜は苦痛を感じているのでしょうか。生き物が苦痛を感ずるのは、それを苦痛として受けとめる神経と脳の知覚作用(こころ)であると考えます。私が動物なかでも大型の哺乳動物を食べることに抵抗を感ずるのは、そぁに私と同じ心の存在を感ずるからです。

3.家畜は食べてよいとすることへの反論
 以前日本の漁業を営む人々が漁場と魚網を荒らしたイルカを撲殺し、欧米の人々から残虐性を問う抗議の声があがりました。これに対する反論に、血のしたたるビフテキを食いながらどうしてイルカの愛護を言うのかという意見がありました。
 私はこの反対意見は本質をついたものと思います。動物の側からの視点で見ると、家畜とそれ以外の動物を区別する理由はなんらないことに気づくはずです。 区分はあくまで人間中心のご都合主義にすぎません。家畜がもし口が利けたら、なんで俺たちだけ特別なんだと抗議をあげるのでは?ともかく、よく言われている「経済動物だから」というのは目的のために手段を正当化している言い訳です。

あむ

1.カバは鳥を救いましたが、ワニの食事を邪魔しました。ワニはたまにしか食事をとらないので餓死するかもしれません。シャチは明らかにオットセイを殺すことを楽しんでいます。罪は自然界ですのであるわけありません。道徳もありません。肉を食べれるのに食べないのは人間だけの不思議な行為です。
 シャチの悪意やカバの善意は私達とは別のルールでの出来事です。それを擬人化することは出来ません。草食動物のカバが小鳥を救ってもイマイチ説得力がありません。ライオンが虎から兎をすくったら、これは思いやりです。でもそんなことはありえないです。私達と別のルールの世界ですから、私達の倫理を当てはめても、はまりません。カバの行為を擬人化して考えることは出来ないと思います。菜食のこころを考えるには人のこころを考えなければならないと思います。

2.苦痛を感じないからとか、こころが無いからとか言うのは恐い考えだと思います。確かに哺乳類は生きてるのが分かりやすいし、殺されれば泣き喚くでしょうし、それを聞けば悲しくなるでしょう。動物を殺すことを悲しいと思うことは私も全くその通りです。菜食と言う言葉は適切では無いと思います非肉食と言う言葉が適当かと思います。非肉食者は必ず植物を生き物と認めてくれません。植物を動物と同じ命をもった生物と認めると、なにも食べれなくなるからだと思います。食物はすべて生物です。私は野菜は食べますが、花は摘みません。花瓶にいけたりもしません。あむさんも3.でおっしゃるとうり、家畜がもし口が利けたら、、と

3.家畜化するのは生態系を守る為と、安定した食料供給を得る為です。現代も誰かが餓死したおかげで私達は生きています。誰かが肉を食べないと言うことは誰かが肉を食べなくてはならないということです。菜食は現代の贅沢であり、傲慢だと思います。食べ物を自分の好きなものだけ選んでるんですから。人間(自分)を悪い意味で美化しすぎてると思う。ちと嫌味に言えばナルシストと思う。動物を殺したく無い気持ちはとても大切だと思うが、殺す実感を感じにくい植物ばかり食べ、それを生き物と解釈しないのはご都合主義かと思います。それこそイルカは殺してはいけないが、牛肉は食うと言ってるのと変わらない。食べ物はすべて生物です。

ハラボテマッスル

 苦痛を感じるこころをもつ動物を殺すことはさらに恐ろしいことである、と考えるはずであるのに肉食を肯定されていることは不自然と思います。
 「感情は肉食を否定しつつも、論理的に肉食を肯定する。」そこには、心の葛藤が生じてきます。現代人が陥るひきさかれた心があると思います。一方、「生き物に対して苦しみと痛みを与えることを避けたいと願い、そのために肉食を避ける。」この自然な気持ちとそれを自ら実践していること。ここに、多くのベジタリアンの人々が言われている、こころのやすらぎと精神の安定がもたらされる理由があるのではないでしょうか。
 家畜化によって生態系を守ることと、安定した食糧供給を得ることができる。については、実はそうではないことについては、このつぎに述べたいと思います。

あむ

 ここの肉食賛成派の方で、植物だけでは皆餓えて死んでしまう、ということをいっていた方がいらしたと思いますが、それは大きな間違いです。しかも逆むきに。我々日本人と、アメリカ人が牛肉を食べる事を、5分の4に減らして、牛たちが餌としている穀物を、食糧難の国にまわせば、世界から餓えが消えるという統計があるのをご存知でしょうか?我々はそれだけ、食による暴力をふるっているような気が私にはします。贅沢は敵だとかそういうのじゃなくて、あまりにむやみやたらなのが今の食事情です。それをあらためる、そういう意味において、菜食主義の主張は有効である。それともう一ついうとすれば、我々が、今おこなっている環境破壊、これは菜食主義とは直接は関係のないように思いますが、渡辺宏さんのご指摘のあったものと関係しているように思いますのであげておきます。我々は日々森林伐採などによって、世界から生物を追い出す方向にもっていっているように思います。それは私達人間も含めて。そういうときには賢治のような、生物を愛する心を持つことでのみきりぬけられるようなものじゃないでしょうか。肉食であろうとなかろうと、今我々は、そういう精神ぁ 鯊膸「砲靴覆C磴覆蕕覆ぁC修譴呂△蕕罎覲囘戮C蘋掬「任△襪函カ世┐襪里任呂覆い任靴腓Δ@C修譴蕕鮃佑┐疹紊如△海離董璽泙浪罅垢ケ廚辰討い襪茲衢擇C紡膸「覆發里里茲Δ糞い發泙燭靴泙后,

やすし

※一部に文字化けが発生していました。もう一度この部分を送付していただけないでしょうか?
とくに5番、人間とは混食する種類なのだからわざわざ自然の流れに背かなくてもいい。中途半端なあわれみは、偽善である。しかも野菜ばかり食っていたんじゃ体が弱る。たんぱく質が足りない。いくら豆腐などを食っていても栄養の違いは歴然としている。

松屋カンナ

そうです。肉1kg作るのに穀物10kg必要ということを読んだことがあります。肉を作る代わりにその穀物を食料が不足している国の人々に回したらどれだけの人々が助かるのか。考えただけで胸が痛いです。私たちは生まれながらにして、すでに肉を食べるのは当たり前のように思ってて、誰も疑問など持ちません。野菜にしても同じことです。それらがどうやって育てられて私たちの口に入るか。 動物は狭い小屋に入れられて、薬の入った餌をたべさせられて、機械で刻まれて.... 考えるだけで..... 私たちは日本に住んでいて、海に囲まれて、おいしい魚を食べる機会は自然に多いです。 そういった意味で魚を食べることは暮らしに根ずいていると思います。私は魚も食べませんが、そういった意味で魚えを食べるのは自然なことだと思います。 野菜ばっかり食っていたんじゃ体が弱るっていう意見は、納得いきません。ケロッグ博士なんかはかなり長生きしてましたよ。だから体調が悪ければ肉を食べればいいですし、植物でも調子のいい人はそれでいいと思います。ベジってやっぱり精神の問題なので体のことを気にするのであれば気使って生活されればいいと思います。命は大切です。中途半端な哀れみは偽善であるというのは、あなたが偽善と思っているだけで、決めつけてはなりません。心の優しいひとだって肉を食べます。なにを言っているのか分からなくなりましたが、心の隅に少しでも動物を愛する気持ちがあるという事は素敵です。全くな無いより。中途半端憐れみでもいいと思います。それを偽善だなんて言わないで下さい。あなたが言ってることは良くある菜食、動物愛護を否定する典型的なパターンだと思います。 よく、動物を食べません。というと、植物だって生きている!と言う人がいます。 その通りです。その時は何と言っていいのか困ります。 でも私がベジで動物性のものを食べないのは、悪循環な食物の生産に反対していて地球や環境のことを考えているからです。動物を食べている人への反発は無いのですが、ただ、残したりしないで欲しいです。やすしさんが言ったようなことや、その肉がどうやってスーパーまで運ばれたかという事を少しでも考えていただきたく思います。

なみ

3の項目 (牛や羊の餌は植物なので、皆が植物を食べても、食糧不足にはならない。)について
家畜の餌になる穀物が世界の食料の偏りを招いています。それらの穀物を飢餓に苦しむ人々にまわすべきです。

無記名

人間が混食・雑食であることは否定しない。そして私自身ビーガンではない。 しかし現代の食し方には納得いかないのでこちらに賛成である。
本来動物は自分で狩をし、自身の手で解体し、食す。 私は一つの生命を自分の手で絶ち、血の一滴までも全て無駄なくありがたく食べ尽くす事の出来る人間にのみ、その権利は与えられると思っている。 菜食に関してはそれが可能である。 (従ってその点で私は魚を食すことに否定ではない。)
現代の肉食はやはりやり方が間違っているように思うのである。

生き物を殺すことは、確かに悪だと思いますけど、ただ、悪を取り除けば、そのまま善になるかは、ちょっとあやしいですね。

藤本克己

私は菜食主義が正しいとはおもいませんし、人間全員が完全に菜食主義になるのも危険だと思います。その理由としては、3つの理由があります。
1.植物も動物と同様に生物であり、両者とも命を持っているという事実です。植物が生物であることに異論はないと思いますが、ではなぜ動物を食べてはいけなくて、植物は食べてはいけないんでしょう。両者に命があるという共通点からすれば、どちらを栄養源として利用しても同じこことであり、動物の命もしくは特定の動物の命を過剰に尊重するのは、他の生物の命を差別化していることになると思います。また、植物を食料として利用することは、植物の命を奪うことによって人間が命を維持していることであり、このことは否定できないと思います。命を奪うことが悪いことだとすれば、人間が命を維持していくために食事をする行為自体も悪いことになってしまいます。人間が動物である以上、他の動物と同様に他の生物の命を奪わなければ、自分の命を維持していけないのは事実であり、それを人間の極端な価値観で変える必要はないと思います。
2.人間は雑食性の動物であることです。人間が本来雑食性の動物であることは、歯式からも明確であり、植物食の傾向が強い雑食性としか言えないと思います。すなわち、人間が無理に植物食になる必要はなく、それは人間の形態に反した不自然な行為としか言えないと思います。
3.もし人間が完全な菜食主義なった場合、野菜・果物の需要が現在よりはるかに増加してしまうからです。日本国内で考えた場合、耕作地の面積は平野部と丘陵地にかぎらえており、野菜の需要を満たすためには耕作地を大幅に増やすには周辺の森林を伐採したり海を埋め立てて干拓地を造成する必要があります。現在、日本には約2515万haの森林があり国土の約67%をしめ世界でも有数の森林国ですが、スギ・ヒノキなどの人工林が非常に多く現存している自然林・雑木林は多くありません。人工林は自然林にくらべ生息できる生物は少なく、自然林・雑木林の減少をくいとめ、一部のスギ・ヒノキ林を日本本来の照葉樹林にもどす必要もあるでしょう。現状では、都市郊外の宅地化に従う耕作地の減少を止めることは非常に困難であり、無理に需要を満たすには周辺の森林を大規模に開発することになり、現存している森林をさらに減少させ野生生物の生息地を奪うことになってしまいます。例としてコウモリは森林性・洞窟性を問わず森林への依存性が高く、一部の森林性のコウモリの減少理由としても、農地開発による森林伐採が考えられています。(日本には約100種,の哺乳類が生息しており、コウモリ目は絶滅種2種を含めて34種が知られており、大部分の種が絶滅のおそれががある野生動物として環境庁のレッドデ−タブックに記載されています。)また、森林を失えば山の保水力が低下することにもなり、河川・湖沼の水量を安定して保つことができなくなってしまいます。そのようになれば、淡水魚などの水生生物の生息が困難になってしまいます。また、それらの生物を餌としている上位の動物(ワシ・タカ類、フクロウ類、サギ類・カイツブリ類・ヘビ類など)も影響を受けることになってしまいます。同じことは耕作地造成のための干潟の干拓にも言え、農作物の生産量を大幅に増やせたとしても、そのために干潟の生物の命を奪ったことになりそれが良いことだとは言えないと思います。諫早湾の干拓事業のことを思うと、いつもこの矛盾を感じます。話が長くなりましたが言いたいことは、耕作地を増やすには野生生物の生息地を破壊し耕作にむくように土地改良をする必要があり、無理に耕作面積を増やせば種の存続を脅かす結果になりかねないことであり、人間が無理をして菜食主義になっても生態系に悪影響を与えかねないということでぁwX。それを防ぐためにも、人間は野生生物の種の存続を脅かさない範囲で動物と植物を生きていくための食料としてバランスよく利用すれば良いことで、人間が動物を食べることが悪いことだとは言えないと思います。(「残酷だ。」と言う人がいるかもしれませんが、捕鯨には反対ではありません。基本的には上記の考えと同じであり、クジラの個体数に影響をあまり与えない範囲での、最小限の捕鯨は認められるべきです。「クジラは知能が高いから殺すな。かわいそうだ。」など言うのは、非科学的としか思えません。食料目的の捕鯨事態は外国でも行われていることであり、エスキモーの人たちにとっても貴重な蛋白源にもなっています。また、食文化としての捕鯨を非難することは、その民族性を非難・侮辱することに等しく行うべきではありません。これは他の食文化を非難することにも言えることだと思います。) 本来、菜食主義などよりもっと大事なことがり、食物を大事にし無駄をなくすことを考えるべきです。賞味期限切れのコンビニ弁当などが大量に廃棄されている現実を考えたほうが良いと思います。
菜食主義とは関係ありませんが、移入生物の問題についてちょと自論を述べておきたいと思います。アライグマの駆除に対して一部の動物愛護団体などが、「かわいそうだから殺すな。」などと言いますが、アライグマが夜行性の雑食性動物であり、農業被害が存在し他の野生動物(カニなどの甲殻類の他にサンショウウオなどの両生類など捕食し、鳥の雛を捕食することもあります。)を食害しているのも事実です。アライグマが繁殖するのを放置すれば、いづれその地域の生態系を崩壊しかねないのは確実だと思います。そのような結果にした責任は、アライグマを無責任に野生化させた人間にあり、心を鬼にして駆除すべきです。同じことは、ノヤギ・ノネコ・サンフィッシュ科3種などの移入生物に共通していえることです。移入生物には悪いですが、在来生物の存続が最優先されるべきであり、そのための野生化した移入生物の駆除は妥当だと思います。

淡水魚馬鹿

肉食を正当化する為ではなく、本当に植物の命を動物と同等に尊重しているものとして話をすすめていた方は、菜食に移行するのか非常に興味深いところです。(実際は、植物に感情や自我を有する中枢神経の活動等は認められていませんが) 何度も言われていますが、牛肉を1キロ生産するのに10倍以上の穀物が必要となります。もう分かっていると思いますが、家畜の生産の裏には、多大な植物の犠牲があるんですよ。 そして現在の過剰な環境破壊にも、途上国の飢餓にも、肉の生産が大いに貢献しています。
また、食料の不足した原始時代、人間は動物を食べる事によって命をつなぎましたが、それ以前は肉食をしていませんでした。 故に人間だけは、生で肉を食べる事を避けるんです。 人間は菜食のみでは充分に生きていけないという誤解がありますが、それは間違いであるといわれています。 ジョージ・バーナード・ショーが、菜食の唯一の欠点は、長寿にあるといったことは有名でしょう。

匿名

個人的には、4の「ブドウ糖にも、細菌や酵母がついている。」これが決め手になっているかなと想います。菜食主義の主張4では、バクテリアと馬を殺すのは違うと意見されているけど、同じなのではないでしょうか。大きさは遥かに違えど生き物ですし、だからと言って肉も野菜も口にしないというわけではありませんが、それは人間にとっても同じのような気がしてなりません。野菜を食べるとは!と想っている菜食主義の思考ほど、反菜食主義者は冷たい人ではないと想うのです。野菜でも肉でも穀物でも、粗末にせず、感謝していただく事に意味を感じます。生きるために犠牲はつき物です。

むぎ

バランスの取れた食事をすれば健康によいし、それは、植物だけに偏っていたら、得づらいと思う。動植物の食物連鎖は自然界の摂理であるから、古来からの雑食を続けて差し支えないのではないでしょうか。また、健康のためには、植物性食品だけを食べるのではなくて、適度な運動や、睡眠などの基本的な生活習慣が大切だと思います。

高校2年5組一班

僕はどちらの主張に説得力があるかは、表明いたしません。が興味があるので発言いたします。
僕はビーガンです。 植物も動物も生きています。植物が痛みを感じないのか、僕にはわかりません。 僕がビーガンである理由は、まだその方がマシであると今の時点では思っているからです。
食糧問題(肉を1kg生産するのに、10kgの植物が必要)とか、家畜の糞尿が環境を汚染しているとか、明らかに家畜は虐待をされている(狭い柵に閉じ込められる、無理やり何度も妊娠させる、本来より短い寿命で屠殺される、鶏であれば嘴を切除される、牛は角を切除される…)などから。 しかし、僕は、自由と、その生き物の尊厳を考え、野菜は植物からの自由の搾取、また大地の搾取、虫からの搾取であるとかんがえます。 本来植物は、その植物によって生息する場所も違います。また、野菜のように、実が大きくはありません。それは野菜は人間が、人間の都合のいいように種の選別をしてきた、もとは野生植物であるからです。 その野生植物を一箇所に植えて、肥料をやり、土を変えてしまったり、耕して生命を奪い、野菜自身が育ちにくいほど食べる部位を大きくしてしまっていると思います。 野菜と呼ばれる植物が、好きなところにすみ、好きなように成長できる、そんな世の中をみたいです。

そのため僕は今はとりあえずビーガンでありますが、野草(野生の植物)のみでいきる実験を致します! また僕の最も尊敬する民族は狩猟採集民族の方々です。 なぜなら!自由、生物の自由、つまり栽培もしなければ、家畜も存在しない、それは生物の自由の喜び、尊厳もそこにあるのではないかと思うからです。

でも、何にも食べずに、太陽を直視して、光から栄養を得て生きるインド人の方がいるらしいので、僕はその真似をします。

グッドラック!

TwitterもFacebookも本名でやってるので、困ったことがある人や、あと、誰のものでもない土地を作りたいという願望を持っているので、興味がある方はご連絡を…。連絡きても何の生産性もないかもしれませんが笑
時代はいい方へ変わる!

上田創史

理性的ではないかもしれません。感情の問題もあります。鶏を絞め殺すか野菜を採るかどちらか自由に選べと言われたら後者を選びます。

動物の死は自身の死を想起させるから不快に思うのではと思いました。 自己満足の世界だと思います。 動物と植物、殺しやすい方を殺すだけです。

それに加えて生産に要する経済的なコストも植物のほうが安いとなれば菜食を支持したくなります。 動物と植物、生命が等価でないと言っているのではありません。しかし、本能的、感情的な感覚は率直に違うものを覚えます。

ひろろ

反・菜食主義の主張に説得力がある派発言欄
菜食主義の主張に説得力がある派発言欄

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