苹香の匂い

 夜があけはじめました。その青白い苹香の匂いのするうすあかりの中で、赤いダァリヤが云ひました。
 「ね、あたし、今日はどんなに見えて。早く云って下さいな。」
(中 略)
 「えゝ、黒いやうよ。だけどほんたうはよく見えませんわ。」
 そのとき顔の黄いろに尖ったせいの低い変な三角の帽子をかぶった人がポケットに手を入れてやって来ました。そしてダァリヤの花を見て叫びました。
 「あっこれだ。これがおれたちの親方の紋だ。」
そしてポキリと枝を折りました。赤いダァリヤはぐったりとなってその手のなかに入って行きました。
ちくま文庫「宮沢賢治全集 第7巻『まなずるとダァリヤ』P.131」

 「何だか苹香の匂いがする。僕いま苹香のこと考へたためだらうか。」カムパネルラが不思議さうにあたりを見まはしました。 
(中 略)
 そしたら俄にそこに、つやつやした黒い髪の六つばかりの男の子が赤いジャケツのボタンもかけずひどくびっくりしたやうな顔をしてがたがたふるへてはだしで立ってゐました。
(中 略)
 「ああ、こゝはランカシャイヤだ。いや、コンネクテカット州だ。いや、ああ、ぼくたちはそらへ来たのだ。わたしたちは天へ行くのです。ごらんなさい。あのしるしは天上のしるしです。もうなんにもこはいもとありません。わたくしたちは神さまに召されてゐるのです。」
ちくま文庫「宮沢賢治全集 第7巻『銀河鉄道の夜』P.270」

 乾いたでんしんばしらの列が
 せはしく遷ってゐるらしい
 きしやは銀河系の玲瓏レンズ
 巨きな水素の苹香のなかをかけてゐる
ちくま文庫「宮沢賢治全集 第1巻『青森挽歌』P.174」