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大島さんは、盛岡で生まれ育ったそうですが、少年の頃の宮沢賢治についての記憶にはどんなことがありますか?
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大人たちが「賢治さん」と呼んでいるので、親戚の人かと思っていたこともあります。「賢治さん」という言い方には、身近さ、親近感が表れているのでしょう。 私は中学生の頃には学校の勉強には熱心ではなかったですが、植物採集や蚕を飼うことと読書には夢中で、いろんな本を乱読したので賢治の作品も読みましたが、それほど特別なものだと思わず、自分たちにとっては身近な東北の生活について書いていると感じました。 食べるものが十分にないので、子供たちが学校の近所のリンゴ畑のリンゴを食べに行ったりしましたが、作物を荒らされて困った農家は、単にしかるのではなく、この部分は食べていいからこっちは食べないでくれという区画をつくりました。いまから考えればのどかな話です。こういう子供たちの雰囲気は「風の又三郎」に出てくる子供たちとあまり違いませんね。
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賢治の物語では、人と動物が話したりすることも多いですが、こういう感覚も東北の普通の生活から出てくるんでしょうか?
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ええ、そう思います。私は写真を撮るために遠野を旅することがあるのですが、1週間も滞在すればアニミズム的な発想が地元の人たちの会話の中に生きていることがよくわかります。
旅館で何人かの地元の人たちが話をしていて、1人だけが前日は大雨が降ったと言い、他の人は一日晴れてていたと言うので、一体どう落ちつくのかと思って聴いていたら、雨だったと言っていた男を雨雲が追い回していたのだろうという決着になって驚いたこともあります。
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大島さんにとっての賢治は、年齢とともにどう変わっていったわけですか?
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東京に出てきた時には、賢治は身近な人という感覚があり、啄木よりスケールが大きいといった意見に違和感があったのですが、時とともに、故郷や賢治が身近なものから、外から見るものに変わっていきました。
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