私にとっての賢治 English

塩原 日出夫さんインタビュー

塩原さんは、賢治の教え子たちを撮った写真集「賢治先生はホッーと宙に舞う」を出されていますが、この写真を撮るようになったのはどういう経緯だったのですか?
この本の文章を書かれている鳥山敏子さんと知り合い、鳥山さんにこの仕事に誘われました。
賢治が生きていれば100歳ですから、当然、教え子たちもかなりのお歳ですよね?
そうです。80歳代後半から90歳代の方たちです。
この方たちが花巻農学校で賢治に教えられたのは、現在の中学生から高校生くらいの年齢の時です。
賢治の教え子たちにお会いになってどんなことが印象的でしたか?
この方たちが賢治に習ったのは70年以上前のことですが、それだけの時間を経て、賢治先生はそれぞれの人の心にはっきりした印象を残している。それだけ大きな存在だったんでしょうね。また、賢治先生のさまざまに違った側面がそれぞれの人の記憶に残っている。賢治はそれだけ多面的な人だったということが驚きでした。
賢治先生の多面性には、たとえばどんなことがありますか?
たとえば、長坂さんにとっては、賢治先生がイタズラ心がわかる人だったということが強く記憶に残っている。長坂さんはイタズラ好きな少年でずいぶんすごいイタズラをしたらしいのですが、賢治先生は長坂さんがやったのがわかっていても、単にしかるのではなくユーモラスな対応をする。賢治先生は、夜、生徒たちを怖い所に連れていって肝だめしをさせたりもしたようです。
それから照井さん(?)という方は、賢治先生の純真さをよく覚えていらっしゃる。ある時いっしょにボートに乗ったら、賢治はもっていたリンゴを水の中に落とし、浮いたり沈んだりする様子を子供のように喜んで観察し、何度もやってみるのだそうです。
瀬川さんという方は、賢治の講義の内容をよく覚えていらっしゃいますね?
そうですね。細胞には生命の何億年もの記憶が伝えられているといった細胞についての生き生きとした講義について話してくださいました。


塩原 日出夫さんのプロフィール
  • 1954年生まれ
  • 高校卒業後に写真家森山大道氏たちの主催するワークショップに参加。
  • 1985
    タイで命の歌を歌うカラワンとの出会いが転機となり
    フリーのカメラマンとなる。
    その後鳥山敏子と出会い、彼女の活動の記録をはじめる。
    その中で宮沢賢治の教え子さん達の写真を撮影した。
  • 1986
    タイでエイズキャンペーンのためのエキシビジョンに参加
  • 1988
    「88年命の祭り」記録の写真集に参加
  • 1989
    民主化後のチェコスロバキアへアレン・ギンズバーグと共に渡り、
    その時の記録写真を雑誌人間家族等へ掲載
  • 1992
    「先生はほほーっと宙に舞った」宮澤賢治の教え子達(自然食通信社)
  • 1994
    ティクナット・ハーンの来日公演の記録ビデオ制作。
    この年から始まった賢治の学校の記録を続けている。
  • 現在、武蔵野美術大学講師、明治学院大学文学部芸術学科講師。

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