私にとっての賢治  太田 誠さんインタビュー


洋行帰りのハイカラな父

お父様は宮沢賢治と同年代で、先生をしていらしたことなど、共通点が多いそうですね。それに気がつかれたきっかけは。

太田誠一郎氏〜英国留学の下宿屋で
実は、仙台区役所に勤めていたぼくの高校の同級生が清六さんのお嬢さんと結婚して宮沢家に入り、後に記念館の館長になったんです。それで僕が十五年くらい前に仙台に赴任したとき、記念館に遊びにいきました。そこにはチェロが置いてあったりして何だか似ているんですよ。物理的なそのものよりもそこの雰囲気がね。というのはよく考えてみると、一生懸命背伸びしようっていうか、変な意味の背伸びじゃなくてみんなでなんとか幸せになろうということが、共通しているんです。そのときに、おやじと同い年なんだということがわかったんです。
おやじは青森なんですよ。それで環境が非常に似ていましてね。あの時代は東北全体が三年から五年に一回は飢饉があって餓死者がでるような大変な環境だったと想像するんです。僕は昭和9年生まれですが、おばあちゃんに「おまえが生まれた年は飢饉でたいへんだったんだ」ってよく言われましたよ。ヤマセっていうのは夏でもほんとに寒いですからね。 うちのおやじは仙台高専(今の東北大学)の土木を出て一時国鉄に入ったんですが、学校に呼び戻されて先生をやっていました。それで文部省の金で3〜4年イギリスに行ってきたんです。当時は第一次世界大戦の終わった後ですごくリッチなんですよね。賠償金と円高で国が金をもっていましたから、教育者をどんどん海外へね。
このさいしっかり人材に投資をしようと。宮沢賢治はイギリスにあこがれていたけれども実際には行けなかったんですよね。お父さまは実際にイギリスにいらして、カルチャーショックというのはどんなふうでしたか。
やっぱり戦争前の大正末から昭和一桁の時代ですからすごく貧乏で、子供を丁稚に出したり兵隊にとってもらうとか、女性は女中奉公に出したりもっとひどいところに出されたりしたりね。その世界から行ったんですから、すごくびっくりしたんでしょうね。当時のああいったひとたちは、いろいろなことを聞くにしたがって、いかに身の回りが貧乏でみじめでいつまでたっても苦労しているんだなとひしひしと感じるんじゃないでしょうかね。それで、若い教え子を集めて海外で体験したことを一生懸命話していました。寮の学生が毎日十五人か二十人、夜になると来て飯喰って足らない人は芋食って、おふくろがてんてこまいしてました。特に青森の旧制中学の後輩が来ましてね。言葉がわかんないんだ、訛がひどくって。ぼくもそういう人にはかわいがってもらいました。その学生たちにおやじがベートーベンやモーツァルトのレコードなんか聞かして文化に一生懸命ふれさせようとしていました。
やっぱり賢治さんと同じですね。
洋行帰りのハイカラで、あのカブレ方は、ほんとにそのままですね。
学生さんの反応はどうでしたか。
最初はちんぷんかんぷんでしたが、だんだん興味をもってとっかえひっかえ聞いていました。戦争が始まる頃、昭和十六年頃ですか、まだコーヒーや紅茶が明治屋あたりから買えたんですよね。コーヒーを外人が飲むお茶だと教えて飲ませてやっても「こんなものよく飲む」っていってました。紅茶を出しても「なるほど、これは緑茶じゃないし番茶でもないな」なんて。
仙台はハイカラなものが早くから入ってきていたんですね。
他にも丸善や三越がありました。丸善は本ばかりでなく、いわゆる洋品だとかね。
仙台には古くからハイカラ好きの文化があるようですね。宮沢賢治の作品の中では小岩井牧場のような畜産がずいぶん出てきますよね。
あの小岩井牧場は近代的パイロット事業をやったんですね。ああいうハイカラなことをやったというのは、当時としては大変なことだったですよ。
日本で早い時期の畜産パイオニア事業があのへんでやられているんですよね。気候がヨーロッパに似ていることもあるようですね。
宮沢賢治の場合も一種のエンジニアで、いかに生活を向上させることが出来るだろうかと具体的に考えようとしたわけですよね。お父さまの場合も技術者として何をなさろうとしたのでしょうか。
当時はもっと鉄道や道路をきちっとしなくちゃならないと一生懸命でした。それに土木が専門ですから土と水の管理ですね。ぼくの子どもの頃は北上川、阿武隈川、それから那珂川と、暴れ川でしょっちゅう洪水がありましたからね。学識経験者っていうんで引っぱり出されたり、外国へ行ってきたのでその知識を絞り出されたりしてました。
鉄道には、賢治さんもかなり感心をもっていたようですね。
私は仙台生まれの仙台育ちですが、鉄道っていうのは、これに乗るとどっかいいところにでも行けるような夢があるんですよね。車なんてないし、バスはおんぼろが走っている時代ですから。それも、どっちかっていうと東京へ向かっての夢です。ですから、世界からいろんな情報がはいってきていろんなことがわかりだすと、なんとかしようとした人はずいぶんいたんじゃないですか。なかなか表現がうまくできなかったですが。
エンジニアの使命感を強く感じてね。
そうそう。それは尊かったんじゃないでょうか。私はおやじのそばに座って聞いていましたから。宮沢賢治ほどすばらしいおやじでもなんでもないんですが、思いは一つだったような気がします。宮沢賢治にふれるとおやじを思い出すっていう感じです。

東北の子どもだったからよくわかる、「風の又三郎」
太田さんが初めて宮沢賢治の作品と出会われたのは。
これがあんまり記憶にないんですよ。小学校2〜3年の教科書に「風の又三郎」があったような気がするんですが。戦争が終わる三年くらい前でしょうか。同じ頃にラジオ劇場で、それも「風の又三郎」。東京とかから疎開してくる子どもに「風の又三郎」の三郎みたいなのがいたんですよ。で、これが東京弁をしゃべるわけですよね。それが異様なふうに見えちゃう。こっちは東京に較べたら土着民みたいな言葉を使っているわけですから。「なんていう子どもなんだろうなぁ!」って。着ているものも小ぎれいだし回転も早くて、一生懸命気を使ってきりっとするような。別に贅沢な服を着ているわけではないけど、シャツひとつズボンひとつが別な世界の人のようなかっこよさで、「ズック靴はいてる」なんて。こっちははだしか下駄。走れっていわれればすぐはだしになっちゃうし、雨ふれば下駄ぬいで懐へいれてね。それで田舎のぼくたちは、近づきがたいけど一生懸命サービスするわけですよ。どこかへ連れていったり、ここの駄菓子屋のこれは美味しいんだよとか教えてあげたり。すると、「そおっ?」ってなもんで。ぜんぜん違うんだな。一生懸命サービスをして、何かを得よう、友達になろうと思っているんだけど、パターンがかみあわない。それで、戦争が終わっちゃうととたんにいないんです。又三郎も1ヶ月か2ヶ月くらいでいなくなっちゃうんですよね。いなくなるのも突然なんですよ。で、何か残していくんですよ。ハイカラな言葉とセンスのある言い回しや態度。
太田さんが初めて宮沢賢治の作品と出会われたのは。
これがあんまり記憶にないんですよ。小学校2〜3年の教科書に「風の又三郎」があったような気がするんですが。戦争が終わる三年くらい前でしょうか。同じ頃にラジオ劇場で、それも「風の又三郎」。東京とかから疎開してくる子どもに「風の又三郎」の三郎みたいなのがいたんですよ。で、これが東京弁をしゃべるわけですよね。それが異様なふうに見えちゃう。こっちは東京に較べたら土着民みたいな言葉を使っているわけですから。「なんていう子どもなんだろうなぁ!」って。着ているものも小ぎれいだし回転も早くて、一生懸命気を使ってきりっとするような。別に贅沢な服を着ているわけではないけど、シャツひとつズボンひとつが別な世界の人のようなかっこよさで、「ズック靴はいてる」なんて。こっちははだしか下駄。走れっていわれればすぐはだしになっちゃうし、雨ふれば下駄ぬいで懐へいれてね。それで田舎のぼくたちは、近づきがたいけど一生懸命サービスするわけですよ。どこかへ連れていったり、ここの駄菓子屋のこれは美味しいんだよとか教えてあげたり。すると、「そおっ?」ってなもんで。ぜんぜん違うんだな。一生懸命サービスをして、何かを得よう、友達になろうと思っているんだけど、パターンがかみあわない。それで、戦争が終わっちゃうととたんにいないんです。又三郎も1ヶ月か2ヶ月くらいでいなくなっちゃうんですよね。いなくなるのも突然なんですよ。で、何か残していくんですよ。ハイカラな言葉とセンスのある言い回しや態度。
戦争が終わった時点で太田さんは何年生ですか。
五年生です。
ちょうどあの子たちの年頃ですね。
ええ。親戚があるかなにかで疎開して来た人が、数年たって高校生になったころに訪ねてきて、「あんときはお前たちにいじめられた」って言うんですよ。こっちはぜんぜんそういうつもりはない。いろんなめんどうみてやったのに。東北の子どもは不器用なんですよね。「風の又三郎」にも囃したてたりというのがでてきますね。要するにかわいい女の子をいじめるのと同じですね。あの、風の又三郎というよそから来た子が地元の子とまじわるのはかなりのギャップがあったように、我々もすごくギャップを感じましたね。教科書をきれいな発音で読んで先生に「おじょうずです」なんて言われちゃってね。アクセントがきちんとした標準語のアクセントなんですね。先生もびっくりしてましたよ。先生だって訛ってんですから。
それは当然ですよね。
昔の場面があそこにちりばめられているんですよね。東京の人たちが風の又三郎を読むと我々と違う感じ方なんじゃないかな。
風の又三郎という存在の中に風の精を感じとるというような感じ方が仙台の子どもにもあったんですね。
ありましたよ。岩手県のああいうところとはちょっと違うかもしれませんけどね。JR仙山線の北側にある泉区のあたりは、我々が子どもの頃はオバケが出るとかたたりがあるって言われて、こわくて行けませんでした。お寺とか火葬場とかで淋しい所でした。今は素晴らしい住宅地ですが。それから広瀬川でも、大きな岩のところが流れで深くえぐられて何とか淵って名前がついて、そこにはぜったい河童がいるとかこんななまずがいるんだぞとかね。近所のおじさんとか地元の人がそうやって説得する道具に使っていたんでしょうね。だから、風の又三郎がぽっと来て、何かを残してぽっとさっていく。あれはなんだったんだろう、現実だったんだろうかといった感じ。風がふくとあいつがしたんじゃないかとかね、東北の子どもだったらわかるんじゃないかな。宮沢賢治は東北だからああいう発想をしたんじゃないでしょうか。
戦後になって宮沢賢治の作品が知られてきますよね。その時期は読まれなかったんですか。
「雨ニモマケズ」は十代で読みましたね。ところがその時は戦後でものすごく苦しいわけですよ。だから、神様みたいな人だなと思いましたね。戦前から戦後の苦しい時にかけて私が接した作品は石川啄木もそうですが、ちょっとみじめったらしいところ、わびしくてさびしくて苦しくてというところを「そうだなぁ」という実感として受けとめました。あまり夢みたいなところは取り去ってしまって。夢があって精神論がどうのこうのというのはよくわからなかったですね。
戦後の一番大変な時期は仙台ですか。
そうです。農家は収穫があるけど、うちは学校の先生だったから、インフレで給料が実質的に下がっちゃうと一週間か十日ぐらいでなくなっちゃうんですね。荷馬車の牛とか馬があぜ道でうまそうに草くってるのを見て、「あー、馬に生まれりゃよかったなぁ。」って思いました。だから、俺の環境から共感できるところを読みとっていたということですね。
宮沢賢治の中でりんごが重要なシンボルとして出てきます。りんごの栽培はいつごろからはじまったんでしょう。
明治時代になってからでしょう。東北の貧しさの原因は、あんなとこで米つくったのがまちがいでしょう。それは司馬遼太郎の「街道を行く」に出ていますよ。要するに、近世になって流通を石高、つまりお米でやったでしょ。それで穫れるところも穫れないところも田んぼをつくれっていうことになった。
米本位制という仕組みの欠陥ということですね。気候風土に合わない米を無理に作ったから。それを認識するまでに、また時間がかかったんですね。
やっと、明治時代になってこれじゃだめだということになって、東北の気候風土に合った商品作物を作りはじめたんですね。政府も農産物のバリエーションをふやそうとして海外から苗を輸入したようです。果物の苗が多いようですが、ドイツあたりでさかんに作られていたりんごなら東北で育つと考えたのでしょう。輸入のりんごは在来種とは違って大きくて甘いんでしょうね。賢治の時代は、風土に合った品種をさがしていた時代なんじゃないですか。

▼プロフィール
    太田 誠
    1934年宮城県仙台市生まれ
    1958年室蘭工業大学(電気工学)卒業
    1962年富士通信機製造(株)(1967年 富士通(株)に改称)入社
    1987年東支社 東北支店長
    現在 (株)ジー・サーチ 代表取締役社長

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