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太田さんが初めて宮沢賢治の作品と出会われたのは。
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これがあんまり記憶にないんですよ。小学校2〜3年の教科書に「風の又三郎」があったような気がするんですが。戦争が終わる三年くらい前でしょうか。同じ頃にラジオ劇場で、それも「風の又三郎」。東京とかから疎開してくる子どもに「風の又三郎」の三郎みたいなのがいたんですよ。で、これが東京弁をしゃべるわけですよね。それが異様なふうに見えちゃう。こっちは東京に較べたら土着民みたいな言葉を使っているわけですから。「なんていう子どもなんだろうなぁ!」って。着ているものも小ぎれいだし回転も早くて、一生懸命気を使ってきりっとするような。別に贅沢な服を着ているわけではないけど、シャツひとつズボンひとつが別な世界の人のようなかっこよさで、「ズック靴はいてる」なんて。こっちははだしか下駄。走れっていわれればすぐはだしになっちゃうし、雨ふれば下駄ぬいで懐へいれてね。それで田舎のぼくたちは、近づきがたいけど一生懸命サービスするわけですよ。どこかへ連れていったり、ここの駄菓子屋のこれは美味しいんだよとか教えてあげたり。すると、「そおっ?」ってなもんで。ぜんぜん違うんだな。一生懸命サービスをして、何かを得よう、友達になろうと思っているんだけど、パターンがかみあわない。それで、戦争が終わっちゃうととたんにいないんです。又三郎も1ヶ月か2ヶ月くらいでいなくなっちゃうんですよね。いなくなるのも突然なんですよ。で、何か残していくんですよ。ハイカラな言葉とセンスのある言い回しや態度。
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太田さんが初めて宮沢賢治の作品と出会われたのは。
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これがあんまり記憶にないんですよ。小学校2〜3年の教科書に「風の又三郎」があったような気がするんですが。戦争が終わる三年くらい前でしょうか。同じ頃にラジオ劇場で、それも「風の又三郎」。東京とかから疎開してくる子どもに「風の又三郎」の三郎みたいなのがいたんですよ。で、これが東京弁をしゃべるわけですよね。それが異様なふうに見えちゃう。こっちは東京に較べたら土着民みたいな言葉を使っているわけですから。「なんていう子どもなんだろうなぁ!」って。着ているものも小ぎれいだし回転も早くて、一生懸命気を使ってきりっとするような。別に贅沢な服を着ているわけではないけど、シャツひとつズボンひとつが別な世界の人のようなかっこよさで、「ズック靴はいてる」なんて。こっちははだしか下駄。走れっていわれればすぐはだしになっちゃうし、雨ふれば下駄ぬいで懐へいれてね。それで田舎のぼくたちは、近づきがたいけど一生懸命サービスするわけですよ。どこかへ連れていったり、ここの駄菓子屋のこれは美味しいんだよとか教えてあげたり。すると、「そおっ?」ってなもんで。ぜんぜん違うんだな。一生懸命サービスをして、何かを得よう、友達になろうと思っているんだけど、パターンがかみあわない。それで、戦争が終わっちゃうととたんにいないんです。又三郎も1ヶ月か2ヶ月くらいでいなくなっちゃうんですよね。いなくなるのも突然なんですよ。で、何か残していくんですよ。ハイカラな言葉とセンスのある言い回しや態度。
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戦争が終わった時点で太田さんは何年生ですか。
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五年生です。
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ちょうどあの子たちの年頃ですね。
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ええ。親戚があるかなにかで疎開して来た人が、数年たって高校生になったころに訪ねてきて、「あんときはお前たちにいじめられた」って言うんですよ。こっちはぜんぜんそういうつもりはない。いろんなめんどうみてやったのに。東北の子どもは不器用なんですよね。「風の又三郎」にも囃したてたりというのがでてきますね。要するにかわいい女の子をいじめるのと同じですね。あの、風の又三郎というよそから来た子が地元の子とまじわるのはかなりのギャップがあったように、我々もすごくギャップを感じましたね。教科書をきれいな発音で読んで先生に「おじょうずです」なんて言われちゃってね。アクセントがきちんとした標準語のアクセントなんですね。先生もびっくりしてましたよ。先生だって訛ってんですから。
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それは当然ですよね。
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昔の場面があそこにちりばめられているんですよね。東京の人たちが風の又三郎を読むと我々と違う感じ方なんじゃないかな。
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風の又三郎という存在の中に風の精を感じとるというような感じ方が仙台の子どもにもあったんですね。
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ありましたよ。岩手県のああいうところとはちょっと違うかもしれませんけどね。JR仙山線の北側にある泉区のあたりは、我々が子どもの頃はオバケが出るとかたたりがあるって言われて、こわくて行けませんでした。お寺とか火葬場とかで淋しい所でした。今は素晴らしい住宅地ですが。それから広瀬川でも、大きな岩のところが流れで深くえぐられて何とか淵って名前がついて、そこにはぜったい河童がいるとかこんななまずがいるんだぞとかね。近所のおじさんとか地元の人がそうやって説得する道具に使っていたんでしょうね。だから、風の又三郎がぽっと来て、何かを残してぽっとさっていく。あれはなんだったんだろう、現実だったんだろうかといった感じ。風がふくとあいつがしたんじゃないかとかね、東北の子どもだったらわかるんじゃないかな。宮沢賢治は東北だからああいう発想をしたんじゃないでしょうか。
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戦後になって宮沢賢治の作品が知られてきますよね。その時期は読まれなかったんですか。
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「雨ニモマケズ」は十代で読みましたね。ところがその時は戦後でものすごく苦しいわけですよ。だから、神様みたいな人だなと思いましたね。戦前から戦後の苦しい時にかけて私が接した作品は石川啄木もそうですが、ちょっとみじめったらしいところ、わびしくてさびしくて苦しくてというところを「そうだなぁ」という実感として受けとめました。あまり夢みたいなところは取り去ってしまって。夢があって精神論がどうのこうのというのはよくわからなかったですね。
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戦後の一番大変な時期は仙台ですか。
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そうです。農家は収穫があるけど、うちは学校の先生だったから、インフレで給料が実質的に下がっちゃうと一週間か十日ぐらいでなくなっちゃうんですね。荷馬車の牛とか馬があぜ道でうまそうに草くってるのを見て、「あー、馬に生まれりゃよかったなぁ。」って思いました。だから、俺の環境から共感できるところを読みとっていたということですね。
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宮沢賢治の中でりんごが重要なシンボルとして出てきます。りんごの栽培はいつごろからはじまったんでしょう。
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明治時代になってからでしょう。東北の貧しさの原因は、あんなとこで米つくったのがまちがいでしょう。それは司馬遼太郎の「街道を行く」に出ていますよ。要するに、近世になって流通を石高、つまりお米でやったでしょ。それで穫れるところも穫れないところも田んぼをつくれっていうことになった。
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米本位制という仕組みの欠陥ということですね。気候風土に合わない米を無理に作ったから。それを認識するまでに、また時間がかかったんですね。
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やっと、明治時代になってこれじゃだめだということになって、東北の気候風土に合った商品作物を作りはじめたんですね。政府も農産物のバリエーションをふやそうとして海外から苗を輸入したようです。果物の苗が多いようですが、ドイツあたりでさかんに作られていたりんごなら東北で育つと考えたのでしょう。輸入のりんごは在来種とは違って大きくて甘いんでしょうね。賢治の時代は、風土に合った品種をさがしていた時代なんじゃないですか。
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