宮沢賢治の弥生的な要素と縄文的な要素という議論については、前にも編集日誌No.7で触れたことがある。従来のこうした議論は、水田農耕を中心とする文化が弥生的で、山村の狩猟採集を中心とする文化(あるいはそれに加えて焼畑農耕の文化)が縄文的というおおまかな区分によるもので、東北のどの文化要素について縄文時代にまで遡ることができるのか、はっきりしない点が多かった。しかし、最近の縄文遺跡発掘による研究の進展によって、東北の文化要素と縄文文化とのつながり方の認識がかなり具体的になってきたようだ。赤坂憲雄さんが編集する雑誌「東北学」(作品社)が創刊されたが、この中でも、こうした問題がさまざまな形で論じられている。東北の文化要素のなかで、最近になって縄文時代とのつながりが明瞭な形で確認されたもののひとつは、クリの木の文化だ。佐藤洋一郎さんが「東北学」の中の「縄文農耕再考」に書いているように、三内丸山遺跡では、クリの巨木が柱に使われているだけでなく、遺跡の周辺の森は大半がクリの林だったことがわかった。生態学的に見るとクリは弱者なので、自然にクリの純林ができるということはないので、人為的に育てられた林と考えられると言う。「風の又三郎」をはじめ、賢治の作品でもクリの木に大事な役割が与えられているが、これは縄文以来の東北の文化要素だと考えていいことになる。
また、三内丸山遺跡ではイヌビエをたくさん採集して利用したことが明かになっているが、「縄文農耕再考」によると、ヒエはこうした過程を経て栽培化された日本原産の栽培植物だ、という説を阪本寧男さんが提唱している。縄文遺跡から出土する炭化したヒエの種子を時代別に較べると、後の時代になると大型化した種子が含まれるようになり、これも栽培化を示すのではないかと考えられている。こうしたことから、ヒエなどの焼畑農耕が縄文時代から始まっているという説が有力になる。そして、赤坂さんとの対談の中で、佐々木高明さんは、1950年の農業センサスによると、東北では岩手県の北上地方にヒエの産地が集中していると語っている。これも縄文以来の東北の文化要素だと言えそうだし、それが岩手県に色濃いというのも興味深い。
さらに、田中忠三郎さんは「麻と縄文の接点」で、三内丸山遺跡から、麻の種が出土したことに注目している。田中さんは、青森県の農山村を中心に木綿以前の麻布や樹皮の衣服の調査に長年たずさわってきた方だ。そして、「麻布をただ切ると、身が切られる。」「麻の着物(死装束)を着ると極楽に行く。」「女は麻糸をさがさない(扱わない)と蛇になる。」といった麻をめぐる言い伝えを通じて、麻が青森の生活のとても古い層をなすことを感じ、「麻布衣は弥生時代を越えて縄文時代から引き継がれたものではないか」という想いをつよく持ちつづけてきたという。そして、近年の発掘で、福井県の鳥浜貝塚の縄文の草創期の遺跡から麻の編物が発見され、日本海沿岸と北海道の縄文遺跡から、アカソ、苧麻(からむし)、オヒョウなどの植物繊維のアンギン様編物が出土するといったように、田中さんの仮説が確かめられつつある。
ところで、こうした古層の布のひとつである藤布のことが、賢治の「タネリはたしかにいちにち噛んでゐたやうだった」に出てくる。しかし、この話で語られている、藤蔓の繊維を凍らせて細かく裂き、口の中で噛んで柔らかくし、編んで着物にする、というのがどの地域の文化なのか、ずっと気になっているのだがよくわからない。どなたか、手がかりがあったら教えてください。
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