岩手の山村には、近年まで焼畑農耕を続けていたところも多く、そういうところが賢治の作品の舞台になっていることもあるようだ。
「狼森と笊森、盗森」は、森の近くに、どこからかやってきた農民たちが定住して集落をつくる話だ。この話に出てくる狼森、笊森、黒坂森、盗森は小岩井農場の近くに実際にある森の名前で、これらの森の近くの古い集落というと姥屋敷なので、この話のモデルになっているのは姥屋敷ではないかと言われている。そして、姥屋敷では最近まで焼畑農耕が続けられてきたという。「狼森と笊森、盗森」の話では描かれている農法は焼畑とは違うようだが、農民たちが播くのは、ソバ、ヒエ、アワなど焼畑で栽培される穀物と共通している。また、北上山地では、20世紀初頭までは焼畑がさかんに行われていたといい、イーハトーブと焼畑文化は密接なつながりがあると思われる。
焼畑農耕というと日本列島では過去のものとなっていると思いがちだが、じつは、宮崎県の椎葉村にはずっと焼畑を続けている人がいる。その椎葉クニ子さんから聞いた話を農学者の佐々木章さんがまとめた「おばあさんの山里日記」(葦書房)という本が出版されている。これを読むと、焼畑の生活がどのようなものか、生き生きと伝わってきてとても感慨ふかい。
焼畑は森林を伐採して木を乾燥させた後火入れをして焼いて畑地をつくり、最初にソバを播き、2年目にはヒエ、アワ、3年目には小豆、4年目には大豆といったようにそれぞれの地方でだいたい決まったサイクルで作物を育てる。そして4,5年で地力が衰えると、別の場所に畑地を移し、放棄されたところは森林にもどっていく。そして、20〜30年たつと一巡りして、育った森をもう一度、畑にする。生産性は低いが、化学肥料や農薬を使わずに厳しい山村の気候に合った作物を育てることができる農法である。
椎葉さんが語った話の記録を読んでいくと、焼畑の生活は稲作農耕と較べて、自然に逆らわず、生態系の仕組みを活かしていく考え方が強いことがわかる。ヒエやアワでも、もともとたくさんの品種が伝わっていて、いろいろな品種をいっしょに播いていたようで、気象条件が変動してもある程度の収穫を維持できる工夫がされていたようだ。
椎葉さんの話の中でとても大事な点のひとつは、焼畑をずっと続けてきたのは、先祖からずっと伝わってきた種を途絶えさせないためだと語っていることだ。椎葉さんが播いているソバやヒエ、アワ、小豆、大豆は、代々にわたってこの椎葉村の焼畑で育てられてきたものであり、それだけに風土に合っている。
椎葉さんが語っているような、その土地の風土に合った種を伝えていく必要があるという考え方が、有機農業の再生の試みの中でも、再認識されるようになっているようだ。
|