画家の宇佐美圭司さんの「心象芸術論」(新曜社)を読んだ。宇佐美さんは若い頃の代表作のひとつに「銀河鉄道」と題された作品があり、宮沢賢治の作品が心の深いところで創作活動と結びついている画家のようだ。1993年に出版された「心象芸術論」では、現代美術の問題意識と重ね合わせながら、「序」を中心に「春と修羅」をじっくりと読み解く作業をしている。
私たちも「宮沢賢治の宇宙」の「時空・Ver2」を書くために、やはり「序」を中心にして「春と修羅」について突き詰めて考える仕事をした後だったので、先端的な作品を描いてきた画家がどう読み、どう考えたかは、大きな関心事だった。「時空・Ver2」を準備する際に「春と修羅・序」で賢治が何を言おうとしたのかという点について本格的な考察はないか探してみたのだが、めぼしいものを見つけることができなかった。迂闊にも、宇佐美さんの「心象芸術論」がそういう本であることを知らなかったのだ。
この本で宇佐美さんは「春と修羅・序」を読み込んでいき、同時代のヨーロッパの画家(モンドリアン、カンディンスキー、クレー)や哲学者(ヴィトゲンシュタイン)の試みと賢治の模索が深く照応しているのを確認して驚いている。そして、両方に共通する姿勢を表すのに宇佐美さんは「アンチ・リアリズム」という言葉を使っている。
賢治のいう心象スケッチの場合、「ここで心は、直接眼に見え、直接わたくしに感じられる、という事柄と鋭く対立」(「心象芸術論」35ページ)していて、リアリズムから遠く隔たっている。宇佐美さんのこの読み方で重要な鍵になっているのが、「春と修羅・序」のはじめの部分に出てくる「(あらゆる透明な幽霊の複合体)」という表現だ。賢治は「わたくしは、あらゆる透明な幽霊の複合体でもある」と言っているのだ。「透明な幽霊」というのは直接眼に見えない何かで、「わたくしといふ現象」を支える「仮定された」前提が揺らぐ時に、「透明な幽霊」が「感官の外から」からやってくる。「春と修羅・序」で「(すべてわたくしと明滅し/みんなが同時に感ずるもの)」と書かれている、「わたくしと明滅し」いっせいに感応状態になる「みんな」とは「透明な幽霊の複合体」なのだと宇佐美さんは言う。こういうふうに「みんな」が同時に感じ、声をあげるのが、賢治の心象スケッチだ。
現代のアンチ・リアリズムの絵画の原点となっているセザンヌの試みは「春と修羅・序」と重ね合わせると、西欧リアリズムの知覚を規定するパースペクティブ(=一点透視画法あるいは遠近法)から「みんな」を解放し、パースペクティブに支配されない「もの」として明滅させようとしたのだと言える。セザンヌがサン・ビクトワール山を何百回も描いているうちに、「山や木や岩が空間のおさまるべき位置から、色や形の独立した単位=タッチとなってぬけだし-----山や木や岩はセザンヌとの交感のなかで半ば幽霊のようになり、空間の手ごたえのようなものに変わっていく」(107ページ)と宇佐美さんは書く。
こうした宇佐美さんの「春と修羅・序」の読みこみ方からは教えられる点が多く、また、この難解な序詩で賢治が何を問題にしようとしたのかという点についての理解は、「時空・Ver2」に書いたことと大筋において一致していて、勇気づけらる思いがした。
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