心象スケッチと幻想

心理学的な仕事の支度
 心象スケッチという言葉で賢治が何を言おうとしたのかを知るための手がかりとして重要なもののひとつに、賢治が友人の森佐一に出した1925年2月の手紙がある。この中で「『春と修羅』も、------これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の支度に、--------機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。」と賢治は書いている。「春と修羅」は「心理学的な仕事」のための準備の「心象のスケッチ」だと賢治が考えていたとすると、「心理学的」という言葉で彼が何を思っていたかが問題になる。
「内界の諸現象」を研究する心理学  植田敏郎さんは賢治の時代の日本への心理学紹介の動きを検討し、当時の代表的な心理学の概説書である元良勇次郎教授の「心理学概論」が賢治の心を捉えたと推測している(植田敏郎「宮沢賢治とドイツ文学」)。元良教授によると「内界の諸現象を研究する学問が心理学で、外界の諸現象を研究する学問が自然科学である」という考え方が鮮明になっているという。
 こうした考え方に「心理学概論」で接したとすると、これは確かに、賢治にとって啓示的だったと思われる。賢治はそれまでに地質学をはじめとする自然科学を広く学んでいて、他方で宗教や文学など「内界の諸現象」にも強い関心をはらい、両者の関連について思索をめぐらしていただろう。そこで、「内界の諸現象」の側からの真理に接近しようとする学問には大いに惹かれるものがあっただろう。
 さらに、賢治が「心理学概論」を読んでいたとすると、これによって勇気づけられただろうと思われるもうひとつの点は、幻覚についての考え方である。つまり、心的活動における実在の標準は、物質活動における実在の標準と異なり、前者からすると、幻覚も実在であることは疑うことができないと「心理学概論」では書かれている。この考え方が、幻覚に不安を感じつづけてきた賢治を勇気づけ、幻想(幻覚)をみつめ記録するという「春と修羅」における姿勢をもたせたのかもしれない。
「心の現象の研究」としての「春と修羅」  このように、元良教授の「心理学概論」に賢治が触発されたと想定すると、賢治の「春と修羅」における企てや、それを心理学的な仕事の準備の心象スケッチだと言った意味がかなりはっきりしてくる。
 まず、友人への手紙で賢治が「春と修羅」について、詩というより心理学的な仕事の準備の心象スケッチだという言い方をしているのは、<科学/文学>という対比における文学としてだけでなく、<外界の現象を研究する自然科学/心の現象を研究する学>という対比における後者の学の一環として「春と修羅」を読んで欲しいという希望を強くもっていたからだと考えられる。
 そうすると、「春と修羅・序」で、「けだしわれわれがわれわれの感官や/風景や人物をかんずるやうに/------/記録や歴史 あるいは地史といふものも/それのいろいろの論料(データ)といつしよに/-------/われわれがかんじてゐるのに過ぎません」という具合に、心象スケッチと地史をくらべて、どちらも「われわれがかんじてゐるのに過ぎ」ないという言い方の部分では、<外界の現象を研究する自然科学/心の現象を研究する学>の対比を想定して前者も「心の現象」の一部ともみなせると考えているようだ。そして、これにつづく、「おそらくこれから二千年もたつたころには-----------」の部分を読むと、真理を探る方法として、自然科学より「心の現象を研究する学」を通じての探究の方が勝っていると、賢治は考えているようにも見える。これが友人への手紙の中で「春と修羅」の「序文」で「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画し」と言っている企てなのかもしれない。
「心の現象の研究」と幻想  さらに、自分の「心の現象」を記録するという方法が真理の探究に大いに役立つのではないかと賢治が考えた理由のひとつは、彼の幻想(幻覚)を通じて人間の心の深部にある普遍的なものが現れてくると感じたからだと思われる。
 「注文の多い料理店」を発売する時の広告文でも、賢治は自分の童話について、「たしかにこの通りその時心象の中に現はれたものである。故にそれは、どんなに馬鹿げてゐても、難解でも必ず心の深部に於て万人の共通である。」と述べている。「この通りその時心象の中に現はれた」といっているものは、幻想(幻覚)やそれに近いものだと思われる。
 また、「小岩井農場」では、幻想(幻覚)を通じて、賢治の心の深部の元型的な者たちが現れるのは、別項で述べた通りだ。

 このように、「春と修羅」で賢治は、詩的な表現だけでなく、心象スケッチを通じて「心の現象を研究する学」を企てたのだと思われる。そして、別項で述べたように「心の現象」の中でも、自らの「心象の時空」の探究に関心をもっていたと思われる。それは、岩波茂雄氏あての手紙(1925年12月)の中に、「六七年前から歴史やその論料、われわれの感ずるそのほかの空間といふやうなことについてどうもおかしな感じやうがしてたまりませんでした」といっているのも、そうした推測と合致する。

ちくま文庫「宮沢賢治全集1〜『春と修羅・序』『小岩井農場』」より

「真空溶媒」の奇妙な時空


時 空
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