Q (141)「やまなし」の中で、五月と十二月(十一月の説もありますが、仮に十二月としておきます)に分かれていますね。やまなしの話を生と死に分けるとすると、五月が死、十二月が生を感じられると思います。
 しかし、よく考えると、五月は植物が芽を出したり、暖かくなってきて、こちらの方が自然の中では生を感じませんか。宮沢賢治は、どうしてこのように話をつくったのでしょう。
 みなさんの意見を聞かせてください。(にゃんこ)

A
Date: Wed, 3 Apr 2002   ☆六角形☆さん

Date: Thu, 6 Dec 2001   あさしさん


Date: Wed, 3 Apr 2002
   ☆六角形☆

5月にも12月にも死と生はあると思うけどなぁ。5月には、かわせみが生き延びる(生)と魚が死ぬ(死)かあり、12月にはかにたちが活動している(生)とやまなしが木から落ちて養分をもらえなくなった(死)があると思うんだぁ。生とは生きていたものが死ぬという意味がある。かには生きている。だから12月に生・死はあるとかんがえるよ!♪イェーイ♪やっほ〜♪終わり


Date: Thu, 6 Dec 2001
   あさし

この作品の特徴は,「対比のおもしろさ」でしょう。 生命の溢れる5月の(昼の)川にやってくる「死」。 そして、逆に生き物のいない12月の(夜の)川にやってくる「生」。 5月と11月が対比になっているとともに、その中で対比があります。 (二重の対比になっています) ↓こんなのはどうでしょうか? http://www2s.biglobe.ne.jp/~asashi/miyadw2.htm 明るい春にカワセミを登場させて暗くし、その暗さを冬まで引きずっておいて最後にやまなしで明るくしてハッピーエンド、という単なる物語の流れと思いますが・・・


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