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(228) はじめまして。 『めくらぶどうと虹』について調べています。私はこの作品は輪廻転生の考えからきているものだと思っていたのですが、最後のほうの虹の台詞はいくら考えても意味がわかりません。友人と話していたのですが、台詞の中に出てくる『人の王』『野の百合』『神の子』等の単語から考えてみると、もしかしたら聖書が関係しているのかもしれない、という考えに到達しました。 賢治がキリスト教に興味を持っていたことや、クリスチャンである斎藤宗次郎と交友があったことを考えると、『めくらぶどうと虹』の虹の台詞にはキリスト教的な、あるいは聖書の一節が用いられている、ということがあるのでしょうか。 ぜひ皆様の考えをお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。(由貴) A Date: Sat, 12 Dec 2009 横山さん Date: Thu, 8 Jan 2004 寒波寝るのらさん
虹の言葉「私を輝かすものはあなたをも輝かします」。これは、あらゆるものに働いている生命の輝きだと思います。自分をちっぽけで価値のない存在と思い、大空に美しく架かる虹を羨望と憧れの目で仰ぐめくらぶどうにさえも、虹と同じ永遠の生命が働いているのです。だから自身は気づいていないが、めくらぶどうもじゅうぶん美しいのです。虹から見れば、きっと七色に輝いていたのでしょう。そしてこの美しい虹も、ほんの一時のいのちです。あらゆるものが生まれては死に、生じては滅す。永久で不変のものは何ひとつない。すべてが変化し生滅する。これは仏教の無常という教えだと思います。30年以上も前に読んで深く感動した作品ですので、細かいところまではよく覚えていません。あしからず。
「めくらぶどうと虹」は気になる言葉が沢山出てきて、ずっと考えてき
ましたので、私の独断ですみませんがとりあえず二つお伝えします。
この童話には仏教やキリスト教、哲学などの思想がちりばめられて
いると私には思えます。
多分だと思いますが聖書でキリストは最後に復活します。めくらぶどうはイエスの弟子で虹(イエス)が復活するのをずっと待っていました。復活後めくらぶどうは虹に消えないでと頼みますが消えてしまいます。あれは多分イエスが復活してそのあと天に戻っていくのですが弟子たちは自分たちだけでやっていくのが不安でイエスには行って欲しくなかったんだと思います。聖書のイエスの復活のシーンを見れば多分もう少し解ると思います。ちなみに「神の子」はイエスで「人の王」は神様を表しているかもしれません。「野の百合」はよく分かりませんが聖書ではよく出てきます。
キリスト教といいますか、ヨーロッパやアラビアなどなどのいろんな国や地方の風習、慣習に合わせた考え方ができる人だと思います。もとは読書から得た知識かも知れませんが、賢治はなんでも吸収し、消化して自分の世界観にしてしまうのではないのでしょうか。銀河鉄道の夜を読むとそんな気がします(これ、どこの国の話?ってね)
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