Q (228) はじめまして。
『めくらぶどうと虹』について調べています。私はこの作品は輪廻転生の考えからきているものだと思っていたのですが、最後のほうの虹の台詞はいくら考えても意味がわかりません。友人と話していたのですが、台詞の中に出てくる『人の王』『野の百合』『神の子』等の単語から考えてみると、もしかしたら聖書が関係しているのかもしれない、という考えに到達しました。
賢治がキリスト教に興味を持っていたことや、クリスチャンである斎藤宗次郎と交友があったことを考えると、『めくらぶどうと虹』の虹の台詞にはキリスト教的な、あるいは聖書の一節が用いられている、ということがあるのでしょうか。
ぜひ皆様の考えをお聞きしたいと思います。よろしくお願いします。(由貴)

A
Date: Sat, 12 Dec 2009  横山さん

Date: Mon, 19 Sep 2005  KSさん

Date: Wed, 10 Aug 2005  匿名希望さん

Date: Thu, 8 Jan 2004  寒波寝るのらさん


Date: Mon, 19 Sep 2005
  横山

虹の言葉「私を輝かすものはあなたをも輝かします」。これは、あらゆるものに働いている生命の輝きだと思います。自分をちっぽけで価値のない存在と思い、大空に美しく架かる虹を羨望と憧れの目で仰ぐめくらぶどうにさえも、虹と同じ永遠の生命が働いているのです。だから自身は気づいていないが、めくらぶどうもじゅうぶん美しいのです。虹から見れば、きっと七色に輝いていたのでしょう。そしてこの美しい虹も、ほんの一時のいのちです。あらゆるものが生まれては死に、生じては滅す。永久で不変のものは何ひとつない。すべてが変化し生滅する。これは仏教の無常という教えだと思います。30年以上も前に読んで深く感動した作品ですので、細かいところまではよく覚えていません。あしからず。


Date: Mon, 19 Sep 2005
  KS

「めくらぶどうと虹」は気になる言葉が沢山出てきて、ずっと考えてき ましたので、私の独断ですみませんがとりあえず二つお伝えします。 この童話には仏教やキリスト教、哲学などの思想がちりばめられて いると私には思えます。
(1)「私を輝かすのものは貴方をも輝かします・・・・」
 賢治が信仰した日蓮の説く中国天台大師の法華経や、詩にも登場する アメリカの哲学者ウィリアム・ジェームズ等の主張は、ものを認識する 場合の主客2元対立を否定しています。
 例えば、めくらぶどうにとって虹は、虹を褒め称えるめくらぶどうの 心があってこそ存在し、その心そのものである。
 というのが(1)の言葉の基と思われます。
(2)「塵の中のただの一抹も・・・」
 前半が中国天台大師の教えを記した摩訶止観巻5の一節、後半が新約聖書のマタイ福音書の一節と思われます。前者については中公新書「法華経」132頁あたり、後者は同福音書第6章を参照されると良いです。
虹はめくらぶどうの願いにもかかわらず何故消えたか、これは天台大師の教えを尋ねなさい!との黙示のように思われます。
 わたしも答えを探索中です。              以上


Date: Wed, 10 Aug 2005
  匿名希望

多分だと思いますが聖書でキリストは最後に復活します。めくらぶどうはイエスの弟子で虹(イエス)が復活するのをずっと待っていました。復活後めくらぶどうは虹に消えないでと頼みますが消えてしまいます。あれは多分イエスが復活してそのあと天に戻っていくのですが弟子たちは自分たちだけでやっていくのが不安でイエスには行って欲しくなかったんだと思います。聖書のイエスの復活のシーンを見れば多分もう少し解ると思います。ちなみに「神の子」はイエスで「人の王」は神様を表しているかもしれません。「野の百合」はよく分かりませんが聖書ではよく出てきます。


Date: Thu, 8 Jan 2004
  寒波寝るのら

キリスト教といいますか、ヨーロッパやアラビアなどなどのいろんな国や地方の風習、慣習に合わせた考え方ができる人だと思います。もとは読書から得た知識かも知れませんが、賢治はなんでも吸収し、消化して自分の世界観にしてしまうのではないのでしょうか。銀河鉄道の夜を読むとそんな気がします(これ、どこの国の話?ってね)


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