Q(55) 「永訣の朝」で「ora orade shitori egumo」とありますが、 なぜ、その部分だけ英語なのでしょうか。 もしこのことを最近どなたか質問なさっていたのであれば 本当に申し訳ないのですが・・・。 答えていただけると有りがたいです。
(あきさんより)
A Date: Thu, 18 Sep 2008 やまっちさん
妹の言葉の部分は元々すべてがローマ字書きだったそうです。
ということは、「ora orade〜」以外をひらがなに直したのですから、「なぜora〜だけをひらがなに直さなかったのか」と考える方が自然かもしれません。
2という数字に詩中でこだわり、ひらがなの持つ優しくやわらかいイメージで妹の優しさを表した賢治にとって、「私は私で一人で(極楽浄土に)行くもん」という妹の言葉は、ひらがなにできなかったのではないかと私は思います。
ただ、「ora orade〜」だけが他の妹の言葉よりも書き出しが上であることの解釈でその理由は変わるかもしれません。
先日、この詩(おっと、心象スケッチ)を読み替えした時に、
ふと連想しました。
宮沢賢治さんは、ラテン語にも精通しており、oraという部分は、彼の好きなラテン語からの発想だと思われます。それを使うことにより、妹の旅立ちを神聖化しているのではないでしょうか?
英語ではなく,ローマ字で書いた
花巻弁です。
非常に悲しいからだと思います。
トシ子の死ぬ場面に直面した賢治は、『永訣の朝』を現実と心象の2部構成で綴っています。心象世界が大半で、トシ子の死に喘ぐ姿を情感こめて賢治は綴るのですが、現実の世界ではトシ子の発する言葉だけが、淡々と( )書きで述べられていると思われます。おそらく、死期を悟った家族には、己の答えた返答以上にトシ子の最期の言葉のほうが何十倍も重いに違いないのですから、あえて賢治も、どう答えたかなどと綴る必要もなかったと思うのです。自らの死を覚悟しつつ、心配そうにそれを見取ろうとしている家族に、トシ子は言うのです。『私は私で一人で行くから、大丈夫、そんなに心配そうな顔で見ないで。』見過ごしてはならないことは、確かに人は「一人で死んでいく」という考えてみれば当然のことを言っている、ということです。当たり前のことをこういうインパクトの強い形で言ったということが詩人賢治の心に深く刺さったと思って違いありません。己の死に直面していて、なおかつ、その死を恐れおののいている人々に気を配っている。こういうのを私個人は、大変「カッコイイ」と感じます。難しい表現で言えば「自我のアウフヘーベン」と言えましょう。!!
それは多分、言葉をそれ以上のものに高めるためだと思います。それ自体を、何と言うかひとつの「言語」、みたいなものにする為だとおもいます。(例えば、「お経」なんかが、それ自体でひとつの願いを体現する感じでは・・?)
方言を標準語で表すことはとても難しいことだと思います。しかし、 私の身勝手な解釈ですが、大切な妹の発した言葉を、 標準語という言葉で書いてしまうと、 そこに妹トシがいなくなってしまい、 最後の言葉がただの一言になってしまうからだと思います。
あの言葉は、妹が言った言葉と考えるのが自然らしいです。(現代文の時間に習いました)なぜ英語かというと、強調という線が一般的であるようですが、僕としては、もっと深いものがあるような気がしています。又考えついたら報告します。 |