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(90)大正15年、賢治さんが、東京の高村光太郎宅を訪問した話は有名 ですが、高村光太郎さん本人は手が離せない時で玄関先での対面に 終わった、とおっしゃってたのに対し、高村光太郎の友人の方が東京 上野のジュ楽にて3人で鍋をつついたという証言があったり、説が 2つありますが、本当はどっちなんだろうと推測なさりますか?(はっしー)
A Date: Tue, 3 Jul 2001 光太郎のファンさん
高村光太郎が好きなので、全集他関連の本を手当たり次第読んでいますが、その中に「宮沢賢治氏が来られたときには手が離せなかった。ではまた明日訪問します、と言って帰られたので翌日待っていたが、とうとうお出でにならなかった。」と光太郎が語ったことが書いてありました。光太郎と賢治が会ったのはたった1度だけである、と他の本でも読んだことがあるので確かだと思います。
私も以前同じ事を考えた事あります。宮沢賢治、草野心平、高村光太郎そして清六氏、この方々のからみがなければ、私達の前に宮沢賢治という存在はなかったかも知れなかったと。さて、本題ですが、この様に考えたら楽しいのではないかと思います。賢治氏が光太郎宅の玄関で 丁重に断られた後、又尋ねたに行ったんじゃないかと。心平から光太郎は、賢治の凄さを聞かされていたでしょうし、邪気に扱わなかったとすると、又明日岩手に帰るという男に、又出直して来いなんて言い方しないでしょうから。きっと東京の最後の日2度目の訪問があったんではないでしょうか。その時は光太郎氏も先客の手塚氏と和んでたので、2人を誘い出して上野に向かったんじゃないかなぁ。筋通りません? |