四次感覚と包括的な認識の視点

気圏のいちばんの上層での発掘
 「春と修羅・序」では、「記録や歴史 あるいは地史といふものも/それのいろいろの論料(データ)といつしよに/(因果の時空的制約のもとに)/われわれがかんじてゐるのに過ぎません」というその時代の歴史的な認識批判に続いて、「おそらくこれから二千年もたつたころは/------/新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層/きらびやかな氷窒素のあたりから/すてきな化石を発掘したり/----」というように、現代の科学者たちが共有する認識の枠組みからははみ出した異時空があるに違いないという賢治の感じ方が述べられている。
「プリオシン海岸」の大学士の認識の枠組み  「銀河鉄道の夜」の「プリオシン海岸」は、「春と修羅・序」のこの部分を引き継ぐような形になっていて、銀河の河原のプリオシン海岸で化石を発掘する大学士が出てくる。そして「ぼくらからみると、ここは厚い立派な地層で、百二十万年くらゐ前にできたといふ証拠もいろいろあがるけれども、ぼくらとちがったやつからみてもやっぱりこんな地層に見えるかどうか、あるいは風か水やがらんとした空かに見えやしないかといふことなのだ。」とこの大学士は語っている。
つまり、銀河の住人の大学士から見た認識と地球上の住人のような「ぼくらとちがったやつ」から見た認識が違うかもしれないということを、この大学士は語っている。
このように「銀河鉄道の夜」は、地上の人たちが普通に共有している認識の枠組みとはまったく違った異時空における別の認識の枠組みを描き出そうとしている。
第四次延長と特異な意識状態  では、こうした異時空の経験は、「銀河鉄道の夜」の第3次稿に出てくる地理や歴史について認識の枠組みの変転がわかる本に示されるような、人々の認識を束縛する枠組みとの関係でどういう意味をもつのだろうか。
「春と修羅・序」の最後は、つぎのような哲学論文風の言い方で締めくくられている。
すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます
「第四次延長」という言葉で何を言おうとしているのかは不確かだ。しかし、ここでたどってきたような「春と修羅・序」で提示されている多元的な認識の枠組みの探究の姿勢、つまり、特定の認識の枠組みに束縛されずにできるだけ多様な認識の枠組みを含み込むような捉え方を賢治は探ろうとしていることは確かで、そうすると「第四次延長」という表現は、多様な認識の枠組みを含み込む包括的な経験の時空のあり方を、指し示そうとしたものだと思われる。賢治の場合には、特異な心的な状態の時に、多様な認識の枠組みを含み込む始源的な時空に触れるような感覚を経験しているので、「第四次延長」はこうした異時空の体験とも深く結びついているに違いない。
コミュニタス的な時空と「第四次元の芸術」  この「第四次延長」という概念も、「春と修羅・序」から「銀河鉄道の夜」へと引き継がれて、「不完全な幻想第四次の銀河鉄道」といった表現が「ジョバンニの切符」のところに出てくる。地上が「三次空間」であるのに対して、銀河鉄道の旅は「不完全な幻想第四次」の空間と考えられている。
「銀河鉄道の夜」はジョバンニにとって地上の時空と違った異時空の経験であるとともに、人と人との関係の構造が流動化するコミュニタス的な時空でもある。この地上から遠く離れた極限的な異時空を走る銀河鉄道に乗り合わせた人たちの間には、ジョバンニが地上で感じていたような壁が取り払われて、人と人との深い出会いがおきる。つまり、「銀河鉄道の夜」は、地上で人と人とを隔てていたさまざまな壁が壊れて、流動的な関係が生まれる時空であるとも言える。こうした異時空の経験は、ジョバンニにとって、自己意識や人生の捉え方が大きく転換する、深い意味をもったのだと思われる。
「第四次」の時空とは、普段、人々の感じ方や考え方を束縛している枠組みから解き放された異時空であり、そうした異時空の経験を通じて、特定の枠組みに束縛されずに、さまざまな視点から感じ、考える自由な思考への可能性が拓けてくる。
そう考えると、「農民芸術概論綱要」に出てくる「第四次元の芸術」という表現についても、同じ脈絡で考えることができる。「四次感覚は静芸術に流動を容る」といった表現も、「第四次元の芸術」が、固化した枠組みを流動化していく異時空の経験としての芸術であることを示している。
ちくま文庫「宮沢賢治全集 1〜『春と修羅』」より

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