「種山ケ原」、「原体剣舞連」から「風の又三郎」へ

又三郎と剣舞の置き換え可能な特性
 「風の又三郎」の九月四日の上の原の部分は、「種山ケ原」の一部を取り込んだものであることははっきりしている。しかし、それだけでなく、「風の又三郎」と「種山ケ原」、「原体剣舞連」のテーマや舞台のつながりに注目してみると、それぞれの作品の性格やモチーフが立体的に見えてくる。
 「風の又三郎」の九月四日の上の原の部分では、「種山ケ原」の達二少年の心を惹きつける剣舞や青仮面がなくなり、達二にあたる嘉助の夢に現れる風の又三郎に置き換えられる。つまり、鬼神を招き、北上山地の自然のエネルギーを渦巻かせる剣舞と風の又三郎とが、賢治の心においては置き換え可能な性格をもつことがわかる。この点に着目すると、「風の又三郎」と「種山ケ原」、「原体剣舞連」とを、ひとつの主題が違った形で展開されたものとして読むことができそうだ。
「種山ケ原」と「風の又三郎」の設定の共通点  「種山ケ原」の剣舞が「風の又三郎」では又三郎に置き換えられたことを念頭において、このふたつの作品を比較すると、かなり類似する点が多いことがわかる。
 まず、物語の季節がほぼ一致している。「風の又三郎」では、夏休みが終わって学校がはじまった9月1日から12日までの物語になっているが、「種山ケ原」も明後日から学校がはじまる日の出来事という設定である。そして、達二の夢の中では、「風の又三郎」と同じような新学期の学校の場面も出てくる。「種山ケ原」の冒頭で説明されているように、この時期は種山ケ原ではもう冬支度のはじまる季節の変わり目であり、9月になると周りの谷あいの集落でも「風の又三郎」の12日のように、烈しい風が吹く日がくる。「種山ケ原」でも「風の又三郎」でも、気象の変化が大事なモチーフのひとつになっているから、こうした季節の変り目であることが不可欠な設定である。
 また、「種山ケ原」と「風の又三郎」は、両方とも種山ケ原およびその周辺の集落を舞台にしていると思われる。「風の又三郎」の冒頭では、「どっどど どどうど」の歌の後で「谷川の岸に小さな学校がありました。」というふうに語りだされる。この谷川の近くに9月4日の馬が逃げる場面の上の原にのぼって行く路があるので、「風の又三郎」の小学校があるのは、種山ケ原の周りの谷あいの集落だと考えていいだろう。
 さらに、「種山ケ原」の作品全体に響いている「ダー、ダー、ダースコ、ダー、ダー」というかけ声は、剣舞が又三郎に置き換えられることによって、「どっどど どどうど どどうど どどう」という又三郎の歌のリズムに替わっている。しかし、どちらも作品の基調をなしていて、心おどらせるとともに、どこか不気味な響きを帯びている。
又三郎/剣舞/カオス的な自然  他方、「種山ケ原」の中に出てくる詩句は、「原体剣舞連」とかなり重なっていることからもわかるように、「種山ケ原」の物語と「原体剣舞連」の詩のモチーフは、ほぼ共通していると言える。
 「剣舞・悪路王・森と銀河のまつり」で述べたように、「原体剣舞連」で、夜の鬼神を招く剣舞の場に、少年たちの初々しいエネルギーと北上山地の自然のエネルギーが渦巻き、銀河と共振するのを賢治は感じとっている。「種山ケ原」では、こうした剣舞のカオス的なエネルギーに魅惑された少年の達二が、気象が急変しつつある種山ケ原で逃げた牛を追っていった道がわからなくなり、危険な谷に近い所で気を失ってしまう。
 風の又三郎も、季節の変わり目に遠くからやってきて、北上山地を吹き抜けていき、少年たちの心をときめかせる力をもつ。「風の又三郎」の小さな小学校に通う少年たちが、三郎と又三郎に対してもつ憧れの気持ちにも、「種山ケ原」の達二が剣舞に対して感じる魅惑と共通する所が大きいと思われる。少年たちの心には、剣舞や又三郎の荒々しいカオス的なエネルギーと共鳴するものがあるのだ。そのために、少年たちはしばしば、死に近い危険にさらされることにもなるのだろう。

ちくま文庫「宮沢賢治全集 1 〜『春と修羅』」より

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