盛岡市
賢治は、盛岡中学校から盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)へ進み、13歳から24歳までの間、盛岡で生活した。したがって盛岡の街とその周辺の山野は、賢治と作品の形成に大きな役割を果たした。
「ポラーノの広場」は、モリーオ(盛岡)市とその郊外を主な舞台にした物語である。
「ポラーノの広場」
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(写真提供:奧田博氏)
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「その頃わたくしはモリーオ市の博物局に勤めて居(を)りました。-------------
わたくしはそこの馬を置く場所に板で小さなしきゐをつけて一疋(ぴき)の山羊(やぎ)を飼ひました。毎朝その乳をしぼってつめたいパンをひたしてたべ、それから黒い革のかばんへすこしの書類や雑誌を入れ、靴(くつ)もきれいにみがき、並木のポプラの影法師を大股(おおまた)にわたって市の役所へ出て行くのでした。あのイーハトーヴォのすきとほった風、夏でも底に冷たさをもつ青いそら、うつくしい森で飾られたモリーオ市、郊外のぎらぎらひかる草の波、
またそのなかでいっしょになったたくさんのひとたち、--------みんななつかしい青いむかし風の幻燈のやうに思はれます。」〜ちくま文庫「宮沢賢治全集」7
氷河鼠の毛皮
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(写真提供:奧田博氏)
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「ぜんたい十二月の二十六日はイーハトヴはひどい吹雪でした。朝の空や通りはまるつきり白だか水色だか変にばさばさした雪の粉でいつぱい、風はひつきりなしに電線や枯れたポプラを鳴らし、鴉(からす)なども半分凍つたやうになつてふらふらと空を流されて行きました。たヽ゛、まあ、その中から馬そりの鈴のチリンチリン鳴る音が、やつと聞えるのでやつぱり誰(たれ)か通つてゐるなといふことがわかるのでした。」〜ちくま文庫「宮沢賢治全集」8
光原社
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(光原社絵葉書より)
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賢治のイーハトーヴォ童話集「注文の多い料理店」を出版した光原社は、現在、盛岡市材木町の民芸品店になっている。光原社という社名も賢治がつけたものである。
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イーハトーヴォ童話集「注文の多い料理店」 (光原社絵葉書より)
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