編集日誌 No.108より

 宮沢賢治にとっては、自分の内か外かわからない、どこかから聴こえてくる声や音に耳をすまし、聴きとることが大事な意味をもっていた。作品の中でも、「鹿踊りのはじまり」「サガレンと八月」では風が語る物語を「わたくし」が聴きとったという設定になっているし、「茨海小学校」では茨海の野原に出かけた「私」が遠くでベルの鳴るのを聞いた気がしているうちに、狐の生徒のがやがや言う声が聞こえてくる。

 最近、多田・フォン・トゥビッケル房代さんの「響きの器」(人間と歴史社)という本に出会い、音や声に「耳を澄ます」ことの重要さを再認識し、また、宮沢賢治にとっての音や声についてよく考えるためのよい手がかりが、多田さんの感じ方にはあると思った。
 多田さんは、自分の中で育ってくる感じ方に忠実な生き方を選んできた人だ。小さい頃から歌が好きで勧められて音楽大学の声楽科に進んだが、声楽に不自然な感じをもって、卒業後、「子どもたちとの音遊び」の教室を始めた。子どもたちは「自分の耳で聞き、心で感じたことを表現する。そうすると、誰かほかの人がそれに応える、触れ合う、新しいインパクトを受ける。時どきぶつかる、そうして、自分の音が合わされていく」。こうした音による対話的な関係が生まれような遊びを、多田さんはつぎつぎに思いついた。
 この教室に偶々、障害をもっていてうまく言葉を表現できない子が加わるようになった。そういう子どもたちが、教室に参加するうちに、ひとりで歌えるようになったり、言葉では表現できなくてもピアノを弾くようになったりするのを見て、多田さんは、「子どもたちの魂の喜びを、力を感じた」。そして自分が感じたことを、もっと客観的に学びたいと考えるようになり、ドイツの大学の音楽療法の学科に入学する。

 ドイツの大学を卒業後、多田さんは音楽治療家として精神病院に勤務した時期があり、その時の治療の実例がいくつか本の中に書かれている。それを読むと、多田さんの音楽治療の基本は、コミュニケーションの回路がひどく狭まってしまっている人と一緒に、音やリズムによる対話的な模索を重ねて、回路を復活させていくことにあるらしいことがわかる。
 多田さんが休み時間に昼寝をしている所にやって来て、「ウウウー」という言葉にならない声で音楽治療を望んだ52歳の男性は、最初のころ、「HALLO」とはっきり発音できなかった。しかし、4回目のセッションで「ラララー」と旋律的な呼びかけをするようになり、太鼓と声で音の交わし合いをするうちに、「ハロー」とはっきり答えたという。最初のセッションでは、彼ははっきりしない音をいろいろ出しながら、一つの高さの音が出せると嬉しそうな表情をした。それで、中心になる音を探っているのを感じた多田さんは、小さな音の楽器でその音を時々鳴らしてあげた。そうした模索を重ねて、HALLOのAとOの高さの音が彼の身体に入ることで、この音を核にして、これと離れた高さの音もつかめるようになっていったのだと言う。また、中心の音をはっきり出せるようになるとともに、外の音に耳をすますことができるようになった。やがて、彼はピアノに合わせて、即興で歌を歌うようになり、周りの人を驚かせた。

 「宮沢賢治の宇宙」では、「セロ弾きのゴーシュ」の病気の子どものネズミをセロの中に入れるところについて「ねずみの音楽療法」という表現を使っている。しかし、多田さんの音楽療法は、子どものネズミの話より、カッコウの話の方に近いようだ。カッコウが水車小屋にやってきた晩、ゴーシュは、カッコウの啼き方を真似てセロをひいてやると、カッコウはよろこんで、それに合わせて「かっこうかっこうかっこう」と叫ぶ。しかし、その後で「あなたのはいゝやうだけれどもすこしちがふんです」と注文をつける。ゴーシュは腹をたてながら、もう一度弾いてやり、続けて弾いているうちに「ふっと何だか鳥の方がほんたうのドレミファにはまってゐるかな」と感じる。そして「こんなばかなことをしてゐたらおれは鳥になってしまふんじゃないか」と言う。
 ここで、ゴーシュはむしゃくしゃしているが、音を聴いているうちにカッコウの側の感じ方に入り込んでいる。こういう経験を通じて、ゴーシュは自分の音をつかむようになっていった。ゴーシュの方が、カッコウとのセッションを通じて、型どおりの楽音と違った音を聴きとれるようになったのだろう。
 このように、多田さんが試みているような、音や声による対話的な関係の模索という視点から読むと、「セロ弾きのゴーシュ」に書き込まれている大事なテーマが見えてくるようだ。