「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」
聞き手 山本 眞人
06年10月29日
(4) チケットぴあを応援したドンたち
今井:運というのはおもしろいもので、人との出合いで運ばれてくるものだと思うんですが、私は矢内社長と知り合った時、余暇開発センターの職員だった。余暇センターで余暇情報センターを作ろうと思っていたら、すごいのがあるよということで矢内さんに会いに行った。それでいろいろ話しているうちに、おこがましくも会員制事業をやったらいいよとか、健康作りのスポーツジム経営はこうだとか、リゾート開発はこうだとか、そういうことまで話が及んで、チケットの流通なんかもおもしろいですよねという話になって、たまたま社長はそういう方向でと考えていた時に、まさに飛んで火に入る夏の虫だった。財団法人余暇開発センターは出来た時から非常に気になる存在であったと矢内さんは言う。ちょうど、矢内さんが大学4年の1971年に雑誌ぴあを立ち上げた翌年に、余暇開発センターが出来たということをニュースで知った。「自分がやろうとしていることを、通産省が財団でやろうとしているんじゃないか、なんじゃこりゃ」と思ってずっと気になっていた。9年たった時に、たまたまそこの研究員が飛び込んで来ていろいろ話をした。それで矢内さんから「余暇センターって、会合とか研究会とか意見交換会とかいうところに出られますか」という質問があったんですよ。じつは余暇センターには賛助会員制度というのがあって、賛助会員になると、月に1回、名物理事長の佐橋滋さんの話が聞ける。佐橋滋さんは元通産次官ですね、城山三郎さんの小説「官僚たちの夏」のモデルになった方で人間的に非常に魅力のある方なんですが、その人が懇親会で、言ってみれば独演会をやるわけです。企業の経営陣には当時けっこう佐橋ファンがいて、懇親会は、
毎回100人から200人近くの人であふれるんですよね。そういう中に矢内社長を、余暇開発センターの報告書とか資料をもらえる権利とか、佐橋さんとお話ができる機会とかいったことにに誘ったわけです。私は余暇センターとぴあとは競合ではなくてむしろ協力の関係で、いろいろ相互にメリットがあるのではという感じを持ったんですね。矢内社長とは賛助会員として1年ぐらい付き合ったんだけど、1年後に「今井さん来てくれない?」という話になった。その時、私は迷いました。財団ってつぶれないと思っていたし、通産省の研究機関で、遊びと暇の研究をしたりレジャー産業の研究をしたりするには非常にいい所だと思っていた。だけど、ベンチャーへ行くといつつぶれるかわからないし、佐橋滋さんというものすごく魅力的な巨大な存在があって、そんなことをしたら佐橋理事長におこられちゃうかもしれない。しかし現場で実際に事業展開をやってみるのもすごく魅力的だった。いろいろ考えて、自分自身「まだ若いからベンチャーで挑戦してみるのもいいか」という結論になったんだけど、「矢内さん、佐橋さんの所に一緒に行ってくれない? それで、かくかくしかじかでこの人に来てくれと言われているんだけども、理事長のご判断におまかせします、と言って、理事長がだめと言ったらあきらめてください」と言ったんですよ。で、すぐに二人で行ってお話しました。そしたら佐橋さんは「ちょっとまて、少し考えてみる」と言った。後日、「お前行ってこい。人に乞われて来て下さいと言われるということは、人生のうちでも滅多やたらにあるもんじゃない」と。「その縁を大事にして、とにかくやれるだけやってみろ」と言ってくださった。「行って来い」と言われたから、帰らなきゃならなかったかもしれないんだけど、帰る前に佐橋理事長がお亡くなりになってしまって、その後余暇センターも解散になってしまって、結果戻りようがなくなってしまったのですが‥。
それで、矢内さんは佐橋さんと非常に親しくなって、昔から矢内さんには「じじいころがし」というあだ名が新聞に載るくらい年輩者に好かれるんですよね。運が強いというか気配りが細やかと言うか、それで、佐橋さんを通じて江戸英雄さん、今里広記さん、瀬島龍三さん、サントリーの佐治敬三さんといった財界のお歴々を紹介されるわけですよ。で、みんな自分の人脈にしてしまって、結局チケットぴあが立ち上がる時には佐橋さんがデモを見に来てくださって、サバダン曰く「矢内君、今井、お前、これを本当にやる気か、これはヤクザの世界に足を踏み入れることになるんだぞ」と。興行の木戸銭を扱うということはそういうことだと。要するに、「右翼の世界から横やりが入るかもしれないから、これは応援団が必要だろう、わしが作ってやる」と言って、チケットぴあの門出をお祝してくれたわけです。応援団というのはどういうことかというと、ぴあ株式会社の顧問団を作ってくれたわけです。それは、佐橋滋さんを筆頭に、江戸英雄さん、瀬島龍三さん、今里広記さん、そうそうたるこの人たちが名前を列ねたら、その意味がわかる人たちは、ちょっと寄ってこない。佐橋さんの人脈には、中国で3年間、終戦後も戦い続けたというとんでもない男が同級生にいて、16年間中国の牢屋に入っていて帰って来た時に、身元引受人になった人がいるのですが、その人が総会屋を仕切るようになるんですね。城野宏さんという人なんですけれども、城野機関というのは知る人ぞ知るで、児玉機関と並ぶ、ほんとうに右翼の親分なんです。その道の人に城野さんの名前を出すと「失礼しました」と言って帰ってしまうような、そういう人たちも知人にいた。そういう意味では、矢内さんという人は、東北人の粘りというか、東京に出て来てそういうチャンスを、上昇志向でうまくとらえていって、今日の地位を得たなと思うんです。私なんか普段接していたから、そういう人たちがどんなにすばらしいかとは人間的には思うんだけど、それをビジネスに利用して、自分の後ろ楯になってもらってというのは、考えもしなかった。松井さんもそういうのはあまり好きじゃなかったみたいです。政治家を使おうとするとあまりいい顔をしなかった。自分の従兄弟には政党の代表をするような政治家がいたのに、そういう人脈を生かして自分のために力を貸してもらうという発想はなかったみたいです。
(5) システム実現のための4大テーマ
今井:それで、チケット流通の話に戻るんだけど、もう一つ松井さんが問題を指摘した点は、入場税。昔、消費税が生まれる直前まで入場税というのがあって、例えば武道館で公演を開こうとする時は、特別入場券といって、自分たちで印刷した入場券は必ず裏にはんこを押さなければいけない。入場税検印というのを押すんです。それは会場の所轄の税務署に持って行って、武道館だったら麹町税務署で5日分5万枚だったら5万枚、はんこを押すんです。それからはんこを押した枚数を税務署とお互いに確認して、それで初めて5000円のチケットが公の入場券として出回る。そして10パーセントの入場税を、半券を切ったものについては納めなければいけないという法律があって、それが非常に流通を妨げる。この入場税検印というのを何とかしないと、オンライン、リアルタイムでチケットがあちこちのプリンタから打ち出されるというシステムが実現しないんです。それを何とか出来ないものかと松井さんに言われた。
それが大きな障害物なんですね。
今井:そうです。チケット流通を考えるにあたって、松井さんが整理した課題は4つあった。オンライン・リアルタイムの予約システムをどう構築するか、一元化したファイルから取って行いく仕組みをどう作るか、それから物流、物のやりとりをどうするか、お金のやりとり、決済をどうするか、最後に入場税検印をどうするか。この4つが現実的に煮詰った最大のテーマだったんです。