文化の産業論的研究 (上)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味
松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年
1 文化〜商品経済の論理からはみ出してゆく部分
ぴあ総研は文化の産業論的研究を主たるテーマとすることをうたってスタートした。文化にも生産・流通・消費といった経済学のカテゴリーに従って考察されるべき様々な問題があるにもかかわらず、その様な観点で論じられることがあまりにも少ないのではないか、という問題意識を標榜したのである。勿論文化の研究が経済学のカテゴリーだけでかたづけられるものでないことは承知のうえである。
ぴあ総研の会社案内を読んで文化はそんな考え方では捉えきれるものではないという批判を何回か頂いた。それらの指摘は全く正しいものではあるが、我々の意図を正しく汲んで頂いてはいないという点で不十分なものともいわねばならない。しかし、一旦文化の産業論的研究という言葉が用いられると、その言葉が一人歩きしはじめる。我々が文化という言葉をどの様な意味を持たせているかを表明しておかなけば、やはり片手落ちの誹りを免れることはできない。
今やあらゆる社会現象は商品経済の論理の中に取り込まれてきた。身近な端的な例が家事の外部サービスへの依存である。女性の社会進出とそれに伴う家事からの解放は、従来家庭内の奉仕として存在していた家事を商品経済の取引関係の中にと導きいれた。そのことが家庭という文化的存在のその文化的意義をも変化させていることは指摘するまでもない。経済統計の世界ではこのことは経済のソフト化・サービス化の一現象として捉えられる。サービス産業によるGNPへの寄与率の増大としてGNP主義者には嬉しい結果が得られる。しかしこの家庭の文化的役割の変化は家族主義者からは苦々しくも見られるものであろう。
我々はGNP主義者ではないし家族主義者でもない。商品経済の中に家庭が取り込まれつつある現実を経済現象として研究対象とすることも出来るし、文化現象として文化論的な研究対象にすることもできる。
芸能文化/芸術/ARTSの狭義の文化領域についても同じことである。文化現象は経済現象でもある。どちらかの観点でのみ捉えようとしても上手くはいかない。
そのことを論ずるためには遊びとその効用を検討してみよう。何故ならば文化は先ず何より遊びに最も近い存在であるように思われるからである。その検討を通じて導き出すことがらの中に、我々が何を文化と考えているかが示される。
遊びをその効用の観点から考察することは難しい。遊びに向う人の意識は遊びそのものに向っているのであるからその先の効用は本来無視されているものであり、もし遊びを遊びの後に残される結果の意味によって捉えようとすれば遊びが遊びでなくなってしまう。実際遊びは結果の意味に従って評価しようとする時様々な意味で有害とされる事も多い。第一にそれは無意味な消費とされ、浪費・無駄遣い・奢侈等と呼ばれて非難される。第二にそれは時として実際に有害でさえあり得る。本人の肉体に悪い影響を及ぼす遊びを例示することは誰にもできよう。だから遊びを積極的に見ていこうとする立場に立つ時、効用の観点ではない別の論拠を求めることはよく見られることである。
しかし、効用という言葉の持つ意味も大変多義的である。本人にとっての効用と社会にとっての効用とでは判断の基準は全く異なる。本人が効用を全く説明できない遊びの世界が社会にとっての効用という観点からは充分説明できるというケースも沢山ある。社会にとっての効用という観点で遊びが論じ尽くされるということは期待しないほうがよいのであるが、文化の産業論的研究ということをうたった我々としては、先ずこのことに触れなければなるまい。