文化の産業論的研究 (下)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味
松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年
1 都市・地域・文化
情報を発信するということの工学的な意味は明確に定義できようが、社会的な意味は明確に定義できるものではない。
例えば、テレビ局は情報の発信源であるというこは工学的には正しいが、社会的には正しいとは限らない。地方テレビ局は中央キー局から流される電波を中継することに終始するに過ぎない。従ってこれを情報の発信源と呼ぶことはできないであろう。
中央のキー局は情報の発信源と呼びうるか。番組を企画し制作している部分については情報の発信源と言うことを否定してはならないかもしれない。しかしマンネリの時代劇やメロドラマを繰り返し安直に作っている状況に対して、情報の発信源などとうっかり言うわけにもいかない。ハリウッド製の映画やアメリカのテレビ番組を放映している部分についてはこの言葉を否定すべきかもしれない。しかしそこに選択の目が働いている時には完全に否定する訳にはいかないという事情もある。
知的感性的な創造が行われ、それが社会に対して発信されるということが情報の発信であると言うべきであるように思われるが、とすると、そのような創造活動がない単なる流通や物真似の世界に情報の発信があるとは決していうことができない。そのような観点で東京を評価してみるとき、東京を情報の発信源であるなどということをおこがましくもだれが主張できるのか。
ところで、情報の発信という言葉の人気に比べると、情報の受信という言葉はいまひとつ人気に欠ける。かつて読書人であることなにがしかの社会の認める文化的ステータスであった。いまテレビやビデオにかじりつく人はカウチポテトと呼ばれる。書物が作った文化とテレビが作った文化の相違と言ってしまえばそれまでであるが、テレビの上での知的感性的創造が書物の上での知的感性的創造に劣るのかと問い直して見れば簡単に決めつけることもできないことがわかる。
映像の表現が文字より劣るなどということは、どちらの側の専門家も主張しえないであろう。にもかかわらず読書人という言葉が情報の受信者を積極的肯定的に評価していたように、現代社会のテレビ視聴者を積極的肯定的に評価できないのは何が原因なのであろうか。
情報の受信がなければ情報の発信は無意味と化す。多数のレベルの高い読者を持つことは作家の最大の喜びであり、多数のレベルの高い番組視聴者を持つことは番組製作者の最大の喜びであることは言うまでもない。しかし情報の発信と受信の関係はこの単純な図式の中に収まるものではない。
現在の東京は世界の芸能文化の巨大消費都市である。テレビ番組・映画・レコード等のパッケージ化された作品のみならず、ロック・ジャズ・ミュージカル・オペラ・バレー・クラシックコンサート、アジアやアフリカの音楽や舞踊や演劇などのライブパフォーマンスが全世界から輸入され、大衆的な消費の対象となっている。もちろん芸能文化作品は輸入されているだけではなく、東京で制作もされている。しかし輸入量と輸出量を比較すれば圧倒的に前者が多い。輸出過剰が非難される日本の産業の中にこんなにも輸入過剰の部門がある。
情報の発信源として東京という言葉は最近非常によく使われる言葉であるが、東京が芸能文化情報の発信源であるなどとこの状況を見て誰が言えるだろう。東京は地方に対してこれらの情報の中継地として機能しているのみだ。東京が世界中の芸能文化を貪欲に消費している現状を否定的にのみ捉える必要は全くない。この湯水のような消費の先にどのような観客が育ってくるのかが最大の問題なのである。東京の現状は日本の現状であると言ってさほど間違っているわけでははないだろう。
空路・新幹線・高速道路のネットワークで、このように狭くなった日本の中で東京と地方の差異を論じてもあまり意味がないように思われる。ましてやもっと距離を縮めたいというのが東京と地方都市の隠されたコンセンサスであるらしい。
たしかに文化領域においても首都圏一極集中は激しい。出版、放送、広告という現代の文化産業の中核が首都圏に集中している。それらに付随する産業も当然首都圏に集中している。地方出版は殆どないにひとしいし、地方放送局は先に触れたように中継施設に近いものである。
地方都市に独自の出版文化や放送文化が成立しにくい程に、人材が東京に集中してしまった。独自の地方都市を文化を形成することは東京に対抗して独自の文化継承の自立したサイクルを作ることにならねばならないが、そのとき東京に対抗できるだけの中身を作ることは現在は国際水準に達することと同じなのである。逆に見れば東京は東京独自の国際水準に達した文化の形成に未だ成功していないのであるから、そのような現状においては何時でも地方都市の競争にさらされている。地方都市が独自の文化的創造力を証明できる時、東京をいつでも凌駕できる。また文化的創造力を持つ人々が東京にこだわっていなければならないほど、東京は文化的である訳ではない。多くの創造的な能力が東京から地方都市に流出しているし、また東京に根拠地を持たない創造的な才能が地方都市を根拠地として生まれている。
とはいえ東京の文化状況が地方に伝播してゆくという、この間の形はまだ継続してゆくであろう。東京と地方の距離はますます短くなり、その間の差はなくなってゆく。それはメディアの普及とともに方言がなくなり、いわゆる標準語がどんどん普及してゆくことと同じ過程なのである。もし独自の都市文化が東京以外の都市に生まれるならば、その都市は独自の言語をも生み出すであろう。かつて江戸が上方の文化に対して江戸文化を作っていった時代に、江戸の言葉が作られていったそのように。そこまでの創造性を強力に主張している都市が今現在存在しているとは考えられない。むしろ東京の広域化がどんどん進んでいると考えるべきではないか。このような状況は都市の規模という観点から見る時、まったく新しい事態であって、この新しい事態がなにを生み出すかこそが考えられるべきだ。