「チケットぴあの創業過程---今井仁さんインタビュー」
聞き手 山本 眞人
06年10月29日
(16) セゾンの裏切り
今井:その間に気を揉む話として松井さんが非常に悩んだのは、チケットセゾン問題です。当時、流通のチケット販売所をどこに置こうかと検討して、マーケティングチームから西武と西友がいいんじゃないかという話になった。堤さんというのは非常に文化人だし、西武劇場も持っていたし、向こうも非常に興味を持って、セゾンカードとぴあカードを裏表で出しましょう、全国の西友のレジ脇にはチケットぴあ端末を置きましょう、西武百貨店にも必ず置きますということで、非常に近寄って来た。我々は非常に若い企業で、秘密保持契約なんていうのは当時交わしていない。それで半年前ぐらいに歩み寄って来たので、それじゃあ急いでとにかく情報を共有化しなきゃいけないということで、私なんかが向こうへ行ったり向こうが来たりして、とにかく情報を全部開示していったわけです。そうしたら1ヶ月ぐらい前になって、当時板倉さんていったかな、三越から行った西武の社長が、堤清二さんに変わって電話をしてきた。それで、「チケットの販売の話というのは非常に我々も興味があっていい仕組みだと思うんだけれども、これは我々がうちでやりますのでもう結構でございます」と言って来た。もう結構でございますも何も、こっちが頼み込んだわけでもないのに、ノウハウを完全に盗まれて、彼等はチケットセゾンという形で半年後にスタートしたんですよ。
結構でございますと言ってきたのが、実際にチケットぴあがスタートするどのくらい前ですか。
今井:劇団四季の「キャッツ」はスタートしていて、それを見ててすごくいいと思ったんでしょうね。
もうすでにスタートしている所で
今井:劇団四季のスタートを見てからです。一般のスタートが1984年の4月かな。その4月の前の月ですから、3月か2月の末にもういいですと言ってきた。それでセゾンに置く端末は全部違う所に。アルタだけは入っていたな、あれはフジ系だから。西武系は六本木のWAVEなんか「キャッツ端末」入れていたんですよ。それを全部引き上げに行った覚えがありますね。急遽、西友、西武百貨店も、チケット置き場は入った物は撤去。入る計画のものは、全部計画を変えて、できるだけ駅前の人々が寄りやすい所に端末を置くという方針にしました。
チャネルをつくり直さなければいけなくなった。
今井:はい。それは、松井さんが主に窓口をやっていて、だいぶ参ったみたいですね。ほんとうにコロッと裏切ったりするからね。でも私はその20年後に経済同友会の情報なんとか委員会の事務局慰労会のごく小さな会合で、堤清二さんに直接会う機会があり、ご本人から「あ、チケットぴあの方ですね。あの時はいろいろすまなかったね」ってポロッと言われて唖然としましたが、兎も角も20年ぶりに溜飲が下がった思いがしました。堤さんもやっぱりそう思っていたんですね。松井さんに直接聞かせてあげたい言葉でした。でも、ビジネスの世界って怖いですねえ、コロッと裏切り、ポロッと謝る、素直と言えば素直ですが、ほんとに参った参ったです。
それにしてもよくやるわという感じですね。
今井:まったく。結局20年間セゾンとぴあはチケット戦争を続けたのですが、期せずして私がチケットぴあを去った日に、チケットセゾンもお亡くなりになったんです。1999年の10月31日をもって。
チケットぴあの功績は、社会システムとして、松井さんの打ち立てたいくつかのビジョンが社会に定着したことじゃないかと思うんです。そのビジョンは非常に普遍的で、現代でも新しい。
(17) プレイガイドの説得
そのシステム構想を実現していく上で、関連する主体のいろんな利害関係ということを考えた時に、プレイガイドが一番、それまでの自分たちのやっていた事業を置き換えてしまうシステムというふうに当然思ったわけですね。それを、いったいぜんたいどうやって納得させるか、大きな問題だったのではないでしょうか。
今井:これは一番悩ましいところで、松井さんも実は一番苦慮されたことだと思います。要するに「月夜の晩だけじゃないぞ」と脅かされたこともあるみたいで、「我々の商売をお前達は取って行くのか」と言われた。「そういうことは許さないぞ」みたいな、ずいぶん抵抗勢力というか、そういう動きもあったみたいですね。それまでプロモーターもプレイガイドが売ってくれて助けられたという関係が長年続いていたからだろうし。だから、プロモーターさんの方は、これからどうなるかということも視野に入れながら両方のつきあいを大事にしようということで、こっちに半分、あっちに半分出してみたいなことからスタートしたところがけっこうあったんですね。それから、松任谷ユーミンは、「コンピュータチケットじゃいや、きれいにデザインされて印刷された記念チケットじゃないといやだ」と言って、最後までプレイガイドを使っていましたね。ユーミンの売り出しは悩ましくてね。我々もそれを引き換え券にしてみたりいろいろ工夫して、最後は扱えるようになったらしいんだけれども、彼女には思い出を大事にしたいという思い込みがあってね。それはそれで大切なことです。我々はそれはちょっと話がそれちゃうけど、会場で100円とかで思い出チケットを売って新たな収入源にしたらいいじゃないですかみたいな提案をした覚えがあります。思い出グッズがもっと売れるようになりますよとか。新幹線乗るのに思い出チケットじゃないでしょという感じだったんだけど。
結局我々はプレイガイドに対する説明、デモンストレーションの日というのを作ったんです。その時NTTデータが全面協力してくれて、霞ヶ関ビルの30階のNTTデータショウルームというのを1ヶ月半ぐらい貸してくれたんです。それでチケットぴあの飾りつけをしてブースを作って、予約センターをこういうふうにやりますと、実際にやって見せる。ぴあステーションではこういうふうにやります。予約した人がぴあスポットに取りに来ました、こういうふうに発券します。予約で郵送で自動引き落としもありますとか。それをコンパニオンを5人雇って、私が説明員で、1日3回回しで、午前の部と午後1・2と、各業界の人を呼んでくるんですよ。演劇の発券元さん、コンサート系、ジャズ系、クラシック系、それぞれやっぱり売り方が違うからね。それでプレイガイドの日を作ったんだけど、やっぱりあまり来なかったですね、敵視してたから。当時はもう戦々恐々としてて、プレイガイドの老舗である銀座プレイガイドという所があって、実は「プレイガイド」という言葉自体も、「銀座プレイガイド」さんの商標登録の持ち物なんです。しかしこれは和製英語で、アメリカでプレイガイドとは言えない。アメリカでプレイガイドと言うといかがわしい女の子を世話してくれるというような概念で伝わるらしくて、向こうは「ボックスオフィス」と言い、世界協会まである。銀座プレイガイドのWさんという社長だったかな、非常に我々に対して、自分の職域を食う憎きぴあみたいな感じで敵視していたように感じていますね。あとは、チケット販売だけで食っているというのは、銀座プレイガイドさんの他にも映画の世界でメジャーという会社があったんだけど、映画のチケットはぴあのほうがそれほどまだ扱い量が多くなかったので、そんなにバッティングはしなかったんだけど。それでプレイガイドさんには、優先的にぴあスポットの発券端末を置きますみたいな融合政策を打ち出したんじゃなかったかな。それで一緒にやってくださったプレイガイドさんもあったし、そうでないところもあった。銀座の鳩居堂さんは置いてくれたのかな。あそこは和紙とか文具が本業で、プレイガイドもやっていたんですね。本業があってプレイガイドもやっている所はそんなに目くじら立てなかったけど、本業がそれ自体という所は本当に死活問題だったのですね。それでついにはぴあの端末を置いてくださって事業を継続なさったということです。