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松井隼さんの思索社会システム設計
■ 数学
■ 哲学
■ 社会システム設計
『文化産業論』
・文化の産業論的研究(上)
* ハ 遊び・学習・教育労働〜主体性

・文化の産業論的研究(中)

・文化の産業論的研究(下)

■ 学生時代の資料

文化の産業論的研究 (上)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味

松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年

ハ、遊び・学習・教育労働〜主体性

 中期的再生産の場合も長期的再生産の場合も、遊びは人間の社会的な能力形成の機能をもつものとして効用を評価される。
 ところで子供の場合には合意されていることであるが、遊びと教育の間には厳密な境界線を引くことはできない。大人の場合でも実は同じである。そのことは教育というものの本質に関係している。自ら学ばなければ如何なる教育も身につくことは無く成果をあげえない。自ら学ぶものとしての教育という言葉が既に相当矛盾した表現になっている。その様な教育は学習といった方が相応しい。もっとも学習という言葉も儒教的な思想に絡められていて必ずしもピッタリとはしない。大胆に言葉を用いるならば子供せよ大人にせよ、遊びの中で自分自身を培ってゆくのである、といってもよい。
 自主性の涵養そのものが教育の課題とされる欧米と、知識や技術をリピート・トレイニングによって詰め込もうとする日本の教育の相違は大きい。方法論の相違というよりは哲学の違いであり、どの様な社会を作ろうとしているかの違いなのである。試験の成績に示される知識や技能に於ける教育の成果を計る事で両者の優劣を論ずる事は間違いである。科学や芸術の創造的な仕事が欧米に於いて日本より遥かに多産であることは、欧米の哲学・方法論が確かな成果を挙げている事を証拠だてている。しかしこの評価も両者を本質的に評価するものではない。どの様な社会をつくるべきか、そのための教育のあり方は何なのか、この論点を抜きにしては、如何なる評価も最終的にはあり得ない。
 自分の興味関心の赴くところで遊ぶと同時に学ぶということが持つ意味は、重要きわまりない。その様に遊び学ぶ時、すでに創造が始められている。遊び学ぶことが創造に直結している時そのことは働くこととも限り無く近い地点にある。
 働くことが遊びであり学ぶことでもある時、働くことは創造的でもある。遊びと学習と労働とは子供時代から大人の時代を通して厳密に区別すること本来不可能なのだ。


ニ、教育と贈与と文化

 教育こそは最大の贈与である。この贈与を商品経済の論理の中に擬制的に取り込む為に様々な工夫がなされている。親は子のために教育サービスを買うのであると説明される。売手は教師叉は学校ということになる。しかしこの売買は親たちの世代の中での役割の一時的な分担の仕方を上手に商品経済の包装紙に包み込んだだけのことである。親達の世代と子供達の世代を各々一纏めにしてみれば、前者から後者への一方的な奉仕が行われていることがよくわかる。
 誰が子供を生み誰が子供を育てるのかは重大な問題である。部族社会では血縁関係のシステムが複雑に発達した。このシステムの遺制或いは残骸は現代の社会にも沢山残されている。
 贈与に関する社会的ルールは必ずしも充分な検討を加えられていない。個別のミクロな親と子の血縁関係をそのまま贈与相続関係の正当性の根拠としているのが社会通念であるが、よく考えてみればそこには論理的な必然性はない。子供を支えるのは親であるが、血の繋がりがこの役割の発生を自然のものにしているとはいえ、この関係は絶対的なものとは言えない。親は死ぬこともあり、また経済的に困窮していることもある。時には親は子供を支えることを拒否することもあろうしそれが正当とみられることもあろう。だから子供を支えるのは本質的には個別の親ではなく親達の社会でなければならない。例えば、もし子供たちについて生まれたときから平等な機会を与えたいという理念を前提にすれば、親が経済的に豊かであるのとないのとでは非常におおきな不平等があるから、生みの親が自分の財力で子を育てるというルールは採用できないであろう。ましてや遺産相続の時、他に経済的に困窮しているものが多数有る中で、既に成人して充分自立している「子供」が優先的に相続権を与えられるなどというのは理解に苦しむルールである。
 人間は死ぬ。死と共に彼はこの世で築きあげた全ての財貨を失う。この世の富をあの世に持ってゆくことは誰にも出来ない。古墳を造りピラミットを築いても所詮それらはこの世への彼の痕跡として残るだけのことである。自分のものと信じていた全てが死とともに脆くも崩れさる。死んでいく人から贈与を誰が受けとるのか。親の財産は子供たちに相続されてゆくのが自然であるという社会的な通念が存在しているが、そのような相続が絶対的なルールであるとはいえない。親が別の相続者を指定することもあれば、もっと単純に子供がいない場合もある。
 「所有」ということは人間社会が作る幻のように儚い関係を示すものであり、死とともに人はこの幻のゲームに参加できなくなってしまう。死者の財貨は、それがもし人々にとつて価値ある物であれば誰かがその財貨を引取り所有することになる。ここにも再び市場取引ではない関係〜贈与が発生する。個別に誰が相続するかは別として、死んでゆく人々は残される社会に贈与してゆくのである。近代以前の社会は神への贈与という形態をつくり出した。富は神の下に仮託され社会の公的な富となる。我々は税という形態を持っているがその正しいあり方は未だ発見されているとはいえない。
 親から子へ、死にゆく者からこの世の者へ、この世の富が譲られてゆく。死者が残すものは勿論財貨だけではない。親たちが子供に与えるものも財貨だけではない。譲り受け、生きている間それに働きかけつつ共に生き、譲り渡してゆくもの、それが文化と呼ばれるものであろう。
 しかしこの文化なるものを我々は遊びの中で受け取り、そして我々の子供たちも遊びの中に譲り渡してゆくのである。我々も子供達も自分たちの創造的主体性の下にこれを置き支配する。従って文化は常に克服されるべき対象として受け継がれ継承される。

 
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp
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