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松井隼さんの思索社会システム設計
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文化の産業論的研究 (中)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味

松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年

5 企業と文化(1)

 まずここで検討したいのは組織集団としての企業の文化である。
 GOING CONCERN としての企業はつねに新しい人材を吸い込み、吐き出している。企業は優秀な人材を抱え込むことによって事業展開の可能性を確保しようとする。企業はその中に吸収した人材を教育していく。特別に用意された企業内教育のプログラムだけが企業の行う教育活動であるわけではない。OJTと言われるように日常の仕事そのものが教育活動でもある。
 蓄積された経験や知識ノウハウが次々と新しい世代に伝えられてゆくという形をみれば企業が文化的存在であることはあきらかである。
 しかし社会という枠組みの中で見る時、企業が文化的存在であるということあくまで部分的な真理でしかない。
 企業文化が部分的でしかないことを企業批判的に語ることは無意味である。それは当たり前のことである。当たり前のことである企業文化の部分性を、しかし、敢えて確認しておくことも無意味ではないであろう。
○企業人材の長期的再生産---企業は人材の供給を「社会」に依存している。「社会」が企業の要求に応える人材を供給しえない時には企業そのものが成り立ちえない。 ○企業人材の短期的再生産/中期的再生産---企業はその構成員の為の遊び/学習/教育を「社会」に依存している。社会が供給するそれらの文化要素によって企業の構成員もはじめて労働力を「再生産」してゆくことができる。企業がその構成員に対して供給できる企業文化は人々の必要としている全体としての文化の中で考えてみれば僅かなものでしかない。
○企業文化から排除されている本質的な文化要素---企業の中からは、幼児や子供は不要な存在として排除されている。全体としての社会が本来不可欠の構成員としているメンバーが企業社会の中では欠けているわけである。だから企業の内部での文化は社会全体が作り出す文化と比べるとき非常に偏ったものにしかならない。企業は「社会」の持つ文化に依存してしか存在しえない。
 現代の社会を都市という言葉に置き換え得るとすれば、企業は企業構成員の「文化」需要を都市に依存して成り立つ。

 日本型経営について触れておこう。
 日本型経営をこの文脈の中で考えるとそれが多くの欠陥を持っていることが明らかになる。日本型経営は社員共済組合的な色彩が強いが産業構造の大変革に対応することができないとき人員整理という日本型経営のタブーを侵さざるをえなくなる。
 重厚長大産業の大企業にこの数年間人員整理の嵐が吹き荒れた。かつての石炭産業の整理のような社会問題としては表面化しなかったが規模においてはもっと大きなものであった。
 企業内教育の流れは社員に対して忠誠心を求め強化する従来の内容を変え、産業構造変化に対応するために社会人としての自立能力を求める内容に方向転換した。企業は社員に対して共済機能を充分には果たしえないことを告白したのである。しかし企業にしがみついて離れない社員の数は多い。今までの日本型経営の幻想のつけが回って来ているのである。
 社員を自立した社会人として充分に教育してこなかった企業のあり方に反省が必要とされる。
 企業内教育は社員を自立した社会人として育てなければならない。しかしそれは企業の中だけでは行えるものではない。社員を本来自立したものとして突き放すことをしなければ社員は自立しない。
 いい年の大人がアイデンティティの危機に直面するという悲喜劇が日本全土で繰り広げられている。
 日本型経営は日本人の社会の中で作られた経営方式である。欧米では同じ方式がそのまま有効に機能することはできない。東南アジアにおいても同様である。
 国際化した企業の構成員として社員或いは従業員というものをどのように考えるかについてしっかりとした哲学をもたなければその組織形成・維持は不可能であろう。企業内教育と現地文化とは必ず摩擦を生じる。企業内文化の現地化あるいは現地文化との調整の仕組みを開発する必要が発生する。

     
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp