文化の産業論的研究 (下)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味
松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年
2 文化産業
知的・感性的創造を事業とするのが文化産業であると定義してみたい。
知的・感性的創造の成果は一般に作品と呼ばれる。作品を創作し人々に提供することをもって事業とするものが文化事業でありそのような事業の総体を文化産業と呼ぶことができよう。
この定義に従う時、文化産業に含まれる領域は限りなく広い。文学・音楽・映像等の狭義の表現活動は当然として、デザイン・新製品開発・新事業開発等も文化産業の中に位置づけられるであろう。社会が必要としている知的・感性的活動でありながらそれを通常の市場経済の論理に委ねては事業として組織しえないものが多数存在している。代表的なものが自然科学の基礎研究の領域である。たとえば数学の研究者が研究活動の成果を作品として世に問うことはできるが、その作品を商品として販売し、研究活動に費やした経費を回収し、あるいは利益を上げるということは現実的ではない。
(注)知的所有権に関してヒステリーを起こしているアメリカでは、数学上の新しい公式に特許権を認める所まで行ってしまった。
数学の研究は永い歴史の中でその社会的な価値を認められている領域であるが、個別の研究の成果が直ちに何の役に立つというものではなく、むしろひとつずつは学者の趣味に委ねられたクイズ同然の遊びの世界と見られるものだ。全く同じことが天文学者についても言えようし、歴史学者についても言えよう。
我々の社会はこのような遊びを専らとする研究者・学者を貴重な存在として市場経済の論理の外に置いて扶養している。しかし知的・感性的創造活動の大半は事業として市場経済の論理に委ねられていることももう一方の事実である。
知的・感性的創造は創造という言葉が端的に示しているとおり何事が新しい事柄を提示するものである。しかし、単にことばの問題ではなく、新しさは古さと対峙していなければならない。新しい創造活動は過去の創造活動を踏み台とし咀嚼し尽くして自由自在な引用を行いうる地点に達したときに真に創造的である。
知的・感性的創造活動を事業として市場経済の中で成立させるために不可欠の制度的環境として知的所有権の保護制度がある。
著作権・著作権隣接権・特許権等の工業所有権等、創造活動の成果が財貨となることは古くから知られている。あかぎれの薬を作る方法を対価を支払って手にいれた将軍の話は荘子に記載されている。
創造活動が過去からの歴史的蓄積の上に成り立っており、また将来の社会の創造活動の為の基盤であることを認めるならば、知的所有権が保護される理由はだた一つしか有り得ない。現在の創造活動を活発化することである。
社会に広く普及すべき知識や優れた表現は家伝・秘伝として秘匿されるべきでないことは言うまでもない。しかし創造者を無視してこれを公のものにしようとする時は逆に隠すことに利益を見出すことになる。知的所有権の保護は私権を保護することを通じて情報を社会財として公的なものにするという大変両義的なものなのである。
したがって知的所有権は一般の財産権と異なって当初から限定された性格を持っている。権利保護の有効期限を定められているのである。権利保護期間がどのくらいの長さであることが良いかはここでは論じない。しかし一般の財産でさえ相続や贈与に公的な性格が必要であるとするなら、知的所有権についてはよりシビアな要請がなされて当然であろう。
ある作曲家が「映画に著作権がない」と発言していた。法律の上ではこの発言は間違っている。映画の著作権という言葉は我が国の法文の上にもちゃんと記載されている。しかし彼の発言の真意を汲む時は間違っているとは言えない。映画の世界では業界の慣習として映画制作に携わった創作者達の個人の著作権は無視されている。すべての権利は映画制作会社に属することになっている。創作者達の著作権は当初から会社に買い上げられているものと見なされているのである。契約書がそのように明文化しているかどうかは別としてである。
創造活動の活性化を本来目的とすべき知的所有権の保護が、創造活動の原点ともいうべきクリエーターの権利保護に役に立たず、そこに投資の権利保護にのみ機能するならば問題は大きい。勿論資本の投下は薦めるべきであるが、同時に個人を動機づけるべきである。創作者達をサラリーマン化、下請け化してしまうとき本来の創造が期待できるとは思わない。