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松井隼さんの思索社会システム設計
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『文化産業論』
・文化の産業論的研究(上)
* ロ 労働力の再生産

・文化の産業論的研究(中)

・文化の産業論的研究(下)

■ 学生時代の資料

文化の産業論的研究 (上)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味

松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年

ロ、労働力の再生産

 遊びの社会的効用は経済学によって労働力の再生産にあることが挙げられている。やや古典的な経済学の視点であるがこの指摘は重要なものである。
 日本の民俗学はハレ・ケ・ケガレという循環図の中に祭りを位置づける。祝祭の場をとおして人々は再生するという古代人の観念があったことは確かであろう。人々の再生の場としての祭り・祝祭という観念は、労働力の再生産のための遊びという近代の観念を先取りし、より根源的な形で提示しているように思われる。
 以下この視点から遊びについて考えてみる。
 労働力の再生産と言ってもいくつかのフェーズに分けて考えなければならない。病気の治療も労働力の再生産と言えようし、高齢者の職業能力再訓練もその様に呼ぶことができる。細かく見れば様々な労働力再生産が考えられる。しかし大局的に見れば大きく三つのフェーズが存在している。
 1 短期的再生産 (日々の再生産〜疲労からの回復)
 2 中期的再生産 (社会変化・革新への対応〜学習による労働能力の革新)
 3 長期的再生産 (子供を生み育てること〜社会的再生産)
この各々に固有の遊びの世界の問題を提起する。

(1) 短期的再生産
 労働力は日々に再生産されなければならない。最低限の睡眠がまず必要とされよう。疲労からの回復が無ければ翌日の労働は不可能である。
 筋肉疲労からの回復と神経疲労からの回復とは異なる過程が必要とされよう。労働による疲労は単純にこの二つの収まるものではないであろう。従って疲労回復過程も様々であり、そこでの遊びも、或いは、薬も様々である。
 短期的再生産は睡眠・食事・休息およびそこでの気晴らしの為の遊びによってなし遂げられる。しかし日々の遊びがこれだけのもので済むということはあり得ない。短期的再生産の行われる中で中長期的再生産が本来は行われる。日々の生活が豊かであることが短期的再生産がたんにその役割を果たしていくだけではなく中長期的な再生産の役割も同時に果たしてゆくことに通じている。
 短期的再生産のための遊びはやや薬に似たところがある。特に即効性を求める時にはそうである。取り敢えず明日の活力を回復するために、という発想は日々の業務に追われ肉体と精神の疲労を招かざるを得ない人々にとって切実な課題である。生活の断片的な部分においては奴隷/農奴/女工/日雇い労働者と同じ肉体的状況が現代においても決して無くなっているのではない。しかし日々の遊びがたんにその様な即効薬的な機能を果たしているのでは人は中長期的に死んでゆく。

(2) 中長期的再生産
 労働能力は常に陳腐化してゆく。社会が要求する労働能力は日々に変化してゆく。  その変化の原因となっているのは主として技術革新である。しかし、技術革新だけが労働能力の革新を要求するのではない。例えば国際化に伴って外国語の能力が必要とされるようになる。日本のように年功序列型の組織の中では年長者は徐々に管理能力を持つことを要求され、これに応えることが出来なければ、組織の中で実質的に労働能力が陳腐化したものと同じにみられる。
 新しい環境に対応することは新しい職業能力の獲得によって達成出来るとは言えない。それは必要条件でしかなく、充分条件ではない。新しい労働能力の中には新しい環境の中での社会関係/人間関係の形成能力も含まれていることを忘れてはならない。この能力は単に技術・技能・知識の習得では達成されない。それはコミュニケーションの能力であり、相手を理解し、自分を表現し理解させ、適切な関係を構成していく能力である。その様な能力は一朝一夕に作れるものではないことは言うまでもない。  コミュニケーションの能力をも含めた労働能力の革新による再生産が出来ない時、人々は「アイデンティティ・クライシス」に陥る。この激しい革新の時代に、何と多くの人々が「アイデンティティ・クライシス」に直面していることか。
 そのようなコミュニケーションの能力を養う日々の遊びが必要となってくる。社会人は自己の職業が取り敢えず要求してくる狭い範囲の勉強や訓練をうけるだけではなく、幅広く遊ばなければならない。その遊びを通じておとなしく言えば社会常識を養うのであり、大袈裟に言えば世界観を形成するのである。特定の職能職場に捉えられている労働主体をそれが本来持っている可能性の世界に解放し、自在に変身しうる能力を把持させることが中期的再生産の遊びの効用である。

(3) 長期的再生産
 子供を生み育てることがもっとも基本的な労働力の再生産と言えよう。
 経済学のカテゴリーに従って表現すれば子供はこの世にまず「消費者」として登場する。彼らは社会に対して何も供給することもなく只ひたすら消費するものである。誰かがこの消費活動を支えなければ子供は生存出来ず、人間社会は消滅してしまう。だから人間社会の成り立ちの根底に市場取引とはまったく異なる取引関係が存在している。贈与である。親達の社会は子供たちに贈与する。これは人間社会の宿命である。
 子供は遊ぶ。遊ぶ子供たちを養い育てることが労働力の長期的再生産である。遊びを通じて社会が必要とする働きをなす能力を子供たちが獲得したときに労働力として社会に登場してくる。
 遊びを何らかの能力の獲得に向けて主体的に編成する時、学習という概念があらわれる。学習の指導者が学習過程を編成する時、教育という概念が現れてくる。
 学習や教育等の概念は遊びの無目的性に反するように見えるので、遊びとは異なるものとして考えられがちであるが、本来は遊びに属していたものであり、そこから分化したのである。
 ところで子供たちが遊び・学習・教育等の結果手に入れるべき能力とはどんなものであるべきか。中期的再生産に於いて特定の職能が常に革新されるものであるならば、長期的再生産に於いて生産されるべき能力は、その様な革新に耐えるべき能力でなければならない。
 また中期的再生産に於いてコミュニケーションの能力こそもっとも大切であるのであれば長期的再生産に於いても同じことがいえよう。子供達が社会に出てゆくということは彼らが中期的再生産の過程に入って行くことであるのだから。

 
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp