文化の産業論的研究 (下)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味
松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年
ハ 知的所有権の帰属(2)
製造業等の企業に帰属している研究者・技術者・開発担当者は新製品を作り、新事業を開発している。彼らの知的所有権は映画人以上に保護とは無縁である。映画の制作に関わる創作者達はせめてその名前を作品のクレジットとして載せる。大ヒットした商品であってもその開発者達は社会に対して無名のまま終わる。
研究者・技術者・開発担当者は作曲家や歌手のようにスターになったり、億万長者になることを完全に禁止されている。
最近マスコミで理工系の学生の製造業離れがとりざたされているが、「カタカナ職業」という学生達、若者達に人気の職業は、単にカッコイイというだけでなくそれらの職業が個人に与えるチャンスが在来型の企業の中では保証されていないということと深く関係しているように思われる。
社会の主流を形成している産業の中で創造的活動に対して与えられている低い評価は社会全体の同様な評価に繋がっている。社会のソフト化という言葉にもし意味があるとするならば、このような価値観を逆転してゆくこと、そして新しい価値観にしたがって社会の隅々まで再編成してゆくことであろう。
文化産業が社会にしっかり根を張るときの共通のパターンがある。優れた創作者、表現者が相次いで登場する。彼らの背後にはプロ予備軍と言うべき多数の熱烈なマニア、ファンが控えておりその一部は実際にプロになる準備を着々と進めている。そして更に裾野に広くマスマーケットが広がっている。
マーケットの構成が人材供給の流れと対応しているのである。マーケットはマーケット、供給は供給という分離した構造ではなく、マーケットがあるから人材が供給され、優れた作品が作り出されるのである。このことを演劇の世界では良い観客が良い演劇を作るといっている。プロ野球を文化産業の一領域と考えてみれば大学野球、高校野球というプロ予備軍から幅広い草野球の広がりを指摘できよう。プロ野球の観客はここに作られている。ファッション産業はファッションデザイナー予備軍の広範な広がりとして巨大なファッション消費者群を持っている。マンガ産業は全国津々浦々のマンガ同人誌に支えられ、更に無数のマンガ読者に支えられている。等々。
文化産業のこれらの産業としての成功例はすべてマーケットから人材をリクルートしている所に共通の特徴を示している。いわばマーケットと作品を供給するサイドとが人材供給の形で当該文化の批評のサイクルを作っているのだ。
人材をマーケットからリクルートしてくるパイプの具体的形態は領域毎にバリエーションがあり得よう。プロ予備軍の為の専門学校を作るのも一つの形態である。同人誌のようなマーケット側の自発的な動きをパイプとして活用する形態もある。
製造業が優秀な理工系の人材を確保しがたくなっている。製造業の場合、人材のリクルートは国家を巻き込んだ産業政策の一環として教育制度を通じて行ってきた。しかしこの間の理工系人材のリクルートが成功裏に行われたとするなら、それは技術開発の世界に興味関心を持つ子供たち、若者たちの存在を抜きには考えられない。勿論技術開発の世界はマンガやファッションのように直接消費者に分かりやすく提示され批評の対象となる部分は少ない。マンガ家志望の子供をつくるのとは異なる側面をもっている。しかし技術開発にそのような消費者の批判、批評を受けることを含めた接点がないということも全く間違いである。かつてラジオを組み立てることはかなりの数の子供たちの熱中する趣味であった。製造業の技術とマーケットのそのような回路がいま絶たれていることに問題があるのかもしれない。
文化の産業論的研究と称して纏まりのない文章を綴ってきた。我々の意図するものが文化論ではないこと、同時に産業論でもないことは汲んでいただけるのではないかと思う。
むしろ両者を纏めて論ずることのできる地平を探してゆくことが最大の課題であるといったほうが我々の現状を正確に表現しているかもしれない。
ぴあ総研の設立直後に文化の産業論的研究ではなく今必要とされているのは産業の文化論的研究ではないかという指摘をくださったかたもいた。我々のいう文化の産業論的研究がじつはそのような研究テーマに必然的に拡張してゆくものであるということもこの雑文によっていくらかは表現できているのではないかと思っている。
明確な見取図を持って探検することも探検であろうが、見取図らしいものを一切持たず、しかし何らかの輪郭のイメージを指針として探検することも探検であろう。地球がまるいという信念でコロンブスの航海は成立する。
我々の信念は狭義の文化産業領域に現れる様々な問題こそ最も現代的な問題の宝庫であり、かつ文化と無関係に考えられることの多い様々なその他の領域について鋭い示唆を与えてくれるものであるという信念である。