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松井隼さんの思索社会システム設計
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文化の産業論的研究 (中)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味

松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年

6 企業と文化(2)〜資本の論理

 企業と文化という時もう一つの問題意識である資本の論理と文化の関わりについて検討してみよう。
 「企業努力が利潤の源泉となっていることもありえよう。しかし恵まれた企業環境が利潤の源泉となっている場合は更に多いであろう。恵まれた企業環境に対して企業はなにがしかの対価を支払うべきである。」
 企業の社会的責任・企業利益の社会的還元の論理はこのような脆弱な論理でしか今のところ語られていない。利潤の源泉が何にあるかは経済思想の争点であった。剰余労働が生み出す剰余価値/革新を行う企業の創業者利得/等、利潤の社会還元ということがどのような観点から発せられるにせよそのような主張は何処かで利潤の源泉についての何らかの考え方に戻ってゆかざるを得ないように見える。
 しかしもう一つ視点がある。
 都市の中に企業が生まれ都市の成長とともに資本が蓄積されてゆく。企業が都市と共に成立するものであったとしてもそこに蓄積される資本は都市の束縛を受けない。資本は都市から離れ諸都市を自由に遍歴するものとなってゆく。根無し草の故郷を持たない資本がただ利潤を追求して行動するとき資本と文化との関わりは絶望的にかけ離れているのみだ。しかし資本は企業・専業と結合して存在する。都市の盛衰と命運を共にする性格を持った企業は都市を活性化してゆくことに努力することが自分自身の利益と合致する。一般に企業はなにがしか都市と係わっているがその程度には深浅の差がおおきくある。特定の都市と深く係わる企業はその都市の活性化に繋がる事業を応援することに利益を見出してゆかざるを得ないであろう。企業が自分の都市を発見出来る時、企業の文化的事業への出資は極めて現実的なテーマとして浮上してくる(資本は根無し草である。企業と資本がきりわけられるか)。
 都市密着型の企業といっても色々とある。
 X氏は幅広く芸能関係のプロデュースを手がけている。ぴあ総研の設立まもなく新事務所を訪ねてくれた。話は最近のホール建設ラッシュのことに及び、自治体などの企画の為の研究会などにしばしば呼び出され相談を受ける立場に立つことが多い彼は、嘆くことしきりであった。というのは、彼はホール等の施設がどうあるべきかについてハード・ソフトの両面について一言も二言もあり、そのような機会には積極的に意見を述べているのであるが、殆ど採用されない。その理由を考えてみると、というところに話が入っていくと、嘆きは憤りに変わっていった。
 実は、もともと採用されることは、あり得ない段取りが作られた中で、有識者の意見を聞きましたというアリバイ作りのために意見を求められているだけなのだということがみえてきたという。
 彼はホール建設の一般的な図式を、次のようにまとめてくれた。
 道路・護岸工事等々のインフラ土木工事の一巡。内需拡大の掛け声という背景。市政百年等の記念事業に文化施設建設を、といううまい口実。これらが建築土木業者の利害と結びつき、更に政治家の利害とも結びつく。だから、誰の為のどの様な施設を作るかは、ななり乱暴に予め決められてしまう。大事なのは建設工事を実施することで、完成したものが何の役に立つかではない。
 さらに話は過激になる勢いであったがここで止めよう。
 彼の図式がすべてのケースに当てはまると考えることは出来ないが、かなり多くのケースについて真相を言い当てていると考えてよいのではないかと私も感じる。最近大手ゼネコンの文化施設企画担当者がぴあ総研に相談にみえた。それとなく尋ねると、自治体側の文化施設企画担当者は、昨日までテトラポッド工事担当であったというようなケースはざらであるという。人事に至るまでこの図式の上にピッタリと対応しているわけだ。そうであるならば、文化施設がどんどん増えるからといって喜んで居られない。文化施設は所詮遊び道具でしかないにしても、遊休施設にしかならないものをせっせと作るのは税金の無駄遣いといわなければなるまい。ましてや「遊び」こそ大切に考え直すべき時代に於いて、何の思想もなく施設作りが行われるとしたら困ったことである。
 都市密着型というよりは都市財政癒着型というべきか。

     
松井隼記念館運営委員会 fieldlabo@as.email.ne.jp