文化の産業論的研究 (上)
われわれが「文化」という言葉に持たせている意味
松井隼/「総合ジャーナリズム研究 No.127」1989年
ホ、文化・コミュニケーション・異文化
遊びの効用がコミュニケーション能力の獲得にあることを指摘した。この能力は二つの側面からなっている。一つは表現する能力でありもう一つは表現されたものを理解する能力である。広い意味での言語能力といってもよいし、思考・判断・行動の能力といってもよい。これらの能力はコミュニケーションの場/遊びの場で遊ぶ事を通して培われる。
広い意味での言語能力は「広い意味での言語」の習得によって達成される。この中に狭い意味での、つまり通常の言語能力が含まれることは言うまでもない。文化というものを客体として捉えようとする時は「広い意味での言語」がそれにあたるであろう。
社会常識といい世界観といい、自分を社会の中に位置づけ、社会の発するメッセージを自分なりに判断して行くための道具と言うことが出来よう。人々は同じ文化圏に属する時かなり多くの社会常識或いは世界観を共有しあう。信頼の標識を共有する時その部分に於いて人々は同じ文化に属しているという言い方も可能であろう。とはいえ全く同じ信頼の標識を全ての領域で共有しあう人はいない。それは人それぞれのものである。
そしてそのこと、つまり自分と異なる他者の存在をしっかりと認めその様な他者とのコミュニケーションを確保していくゆくことが本来のコミュニケーションの役割である。
であるならば文化の本質の中に異文化とのコミュニケーションの能力が含まれていなければならないことになる。
言論や表現の自由を社会の基本的な価値として認めたのは近代社会のなし遂げた偉大な成果である。
その自由を現実のものとして実現してゆくためには、法律にそれを明示するだけでは不十分である。出版や放送等のメディアが人々の手の届くところに自由に使える道具として存在していることが必要である。
だがコミュニケーションの手段は近代の社会の中でどんどん巨大化してきた。その結果それらはますます人々の手から遠ざかりごく一部分の人々の支配に委ねられてしまった。のみならず人々はその巨大化したマスコミの影響の下に置かれることとなり産業社会の大量生産・大量販売のシステムとマスコミとが手を結ぶことによっていわゆる大衆消費社会が作られてきた。
人々は巨大なマスコミの展開するキャンペーンによって長いあいだ動かされてきたのであるが、近年だんだんとキャンペーンの神通力が効かなくなってきた。そのような現象に直面してキャンペーンの仕掛け人達は価値観が多様化したとか消費者が分衆化したなどというようになったのである。だから、価値観の多様化という言葉は、通例では消費者の意識・嗜好の多様化に振り回されいる消費財マーケティング担当者の自分自身を慰める言葉、あるいは言い訳の言葉になっている場合が多い。しかしこの言葉をもっとポジティブに捉え直すべきときがきているものと思われる。
価値観の多様化は個人の主体性が社会的に現実化してきたことの現れと見ることができる。つまり大衆消費社会の終焉である。
大衆消費社会に終焉をもたらした要因は複合的である。その要因を列挙して関係を分析することはここでのテーマではない。
メディアも技術によって革新される。現代の最先端のメディア技術は全く新しい文化状況を可能にする条件をつくった。
しかしニューメディア・ビジネスという言葉が端的に示しているのであるが、わが国においてはニューメディアに関する議論の殆どが新しい産業の登場とそこでのビジネスチャンスの有無という観点からなされてきている。現在再度熱を持った議論の対象となっている都市型CATVの場合も同様な議論が行われている。しかし事は単に産業の問題に止まるものではなく、新しい生活スタイルの創造という文化の根本に係わる問題ではなかろうか。TVの普及が現代の我々の生活のありとあらゆる局面を規定していることは全ての人の認める現実である。そのTVの状況がもし根本的に変革されるならば、そのことはとりもなおさず我々の生活が全面的に変革されるということにほかならない。
CATVやVIDEOTEXなどのニューメディアの話題が世の中に登場しはじめの頃に一部の人々が抱いたそれらへの期待の思いは、ナム・ジュン・パイクが語る次の言葉に籠められた思いと同じであった。「放送の歴史も、少数発信・多数受信の現状から、多数発信・多数受信の方向へ発展していかないといけない。」「資本による検閲に対して政治権力による検閲で対抗するのは、検閲を二重化するだけで解決にならない。」「つまり、TVの場合、政治的な検閲はなくなっても、お金を理由にした事前検閲が全部ある。企画書を出して、予算を握ったプロデューサーがそれを認めて、チェックを重ねる。それに対して、アーティストが直接予算権を持って、プロデューサーを雇う仕組みを作ったわけね。」
新しいメデイアが我々の生活をどの様に変革するのかは予め決まっているわけではない。技術が切り開いた新たな地平が我々の眼前に広げられているのみであり、その地平をどの様に開拓し、何を植え、どの様な建物を建設するのかは、我々自身のこれからの選択によって定められてゆくのである。