●賢治が菜食主義者だったのも、「すべてのいきもののほうたうの幸福をさがさなければいけない」という倫理感からきているのだろう。「ビジタリアン大祭」では、菜食主義者とそれに対する反対者のユーモラスなディベートがなされる。
●また「虔十公園林」は、知恵が足りないと近所の人に思われていた虔十が植えた杉の林が、時代が移り周りの環境がすっかりかわってもそこは昔のままで子供たちが喜んで遊ぶ場所であり続けたという話である。長い時間を隔ててみると、皆が杉が育たないと思っている所に杉苗を植え育てることに執着し馬鹿にされていた虔十が、生き物から何かを感じとる「賢さ」をもっていたことがわかる。自然と人間の関係では、ある時代の人間の知識は所詮たいしたものではなく、虔十のような愚直さの方が尊いと賢治は考えたのだろう。
●生き生きとした自然生態系の保全のためには、自然とともに生きる伝統的な生活の知恵をもつ土着の人たちから多くを学ぶ必要があることを、現代のエコロジストは最近になって認識しつつある。
他方、賢治の作品では「なめとこ山の熊」の小十郎、「鹿踊りのはじまり」の嘉十のように、野生の生き物との相互依存的な関係の中で生活する土着の人たちの哀歓をつきつめて描いている。そういう点では、現代のエコロジストにも多くの示唆を与えるだろう。
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