異質な者に対して開かれた心

●イーハトーヴォとは岩手がエスペラント語風に変形された地名である。物語の舞台についてのこの命名に端的に示されるように、トーハトーヴォ童話の世界とは、東北地方の岩手県の風土、生活、歴史に根ざしながら、それらが賢治の詩的想像力によって変成されたミクロコスモスである。

日本列島では、稲作農耕が始まる前に、成熟した狩猟採集文化を育んだ縄文時代が続いたがその中心は東北地方にあった。やがて列島の南や西から稲作農耕の弥生文化が浸透し、東北地方にも波及してくるが、奥深い豊かな森林をもつこの地方には、縄文的な要素が残り続けた。そして、東北地方を支配域に統合しようとした関西や関東を中心にする権力と先住民の蝦夷やその後裔との対立、抗争が続いた。明治時代に入ってからも、関東や関西を中心に工業化が推進され、東北地方は貧しい後進地域と見なされた。
 このように、権力の中心から離れ、奥深い自然をもつこの地方では、農耕社会や工業社会の秩序に組み込まれていない自然の領域が豊かにあり、それと結びついた縄文的、蝦夷的な文化の伝統が力をもち続けてきた。

こうした中央から遠く離れた周縁的な場所としての岩手県の風土的、歴史的な特質を賢治は掘り下げていった。そうした探究がイハートーヴォ童話の世界に投影されているのだと思われる。
 イーハトーヴォでは、人間の集落をとりまく自然の住人たち(山男、風の精、山猫---)がそれぞれの生き生きとした個性をもっている。そうした自然の住人たちと人間とのさまざまな形での出会いや緊張関係が、多彩なドラマをつくりだす。そして、賢治は、農耕民の共同体の側の視点から自然の住人を異質な者として恐れたり排斥したりするのではなく、両者を結ぶ開かれたコミュニケーションの可能性を探ろうとした。

●そうした姿勢がわかりやすい形で現れるのが村人と山男の関係である。
 東北の伝統的な村落においては、山男は人里離れた山に住む、幻想的な恐ろしい者として意識されてきたが、なかには山男を約束を守る律義な者として語っている伝承もある。賢治の物語に登場する山男は、黄金色の目をしていて異様ななりをしている点は伝承の山男の属性を帯びているが、村の人々を恐れされる存在という面は除かれ、正直で純朴な性格が強調されている。
 「祭の晩」では、村の若者たちが「よそもの」としての山男に対して排他的な攻撃をする。しかし、山男の善良さを感じた子供の亮二は山男を窮地から救い、その後、亮二にたくさんの薪や栗が届けられ、山男との相互的な関係がつくられる。この物語では、明らかに村人と異質な者との開かれたコミュニケーションの可能性が主題となっている。

「狼森と笊森、盗森」でも、野原を開墾して村だてをした農民と狼や山男などのその周囲の森の住人との相互依存的な関係がつくられていく。これも、農民とその周囲に住む異質な者たちの間の相互的なコミュニケーションがテーマとなっている物語である。

●さらに、「雪渡り」は人を騙すという偏見をもたれている狐と子供たちとの心の出会いが主題となり、「どんぐりと山猫」では、子供の一郎が山の住人である山猫に招かれ、どんぐりの争いをおさめる。「鹿踊りのはじまり」では、手拭いを囲む鹿たちの様子に感動した嘉十に鹿の言葉が聴こえはじめるし、「なめとこ山の熊」でも谷の向こうの景色に見とれる熊の親子の会話を猟師の小十郎が聴きとる。
 これらの物語では、村人の周囲に住む動物(および植物)という異質な者たちとの開かれた関係がテーマになっていると言うことができる。

●また、「風の又三郎」の村の子供たちの心の中では、遠くからの転校生で都会的な風貌の高田三郎と遠くから風を運んでくる風の又三郎とが重ね合わせられる。やはり、村の子供たちにとって、高田三郎および風の又三郎は、神秘的な属性を帯びた異質な者である。とすると「風の又三郎」も、村の子供たちと遠くからやってきた異質な者とのコミュニケーションの物語として考えてみることができる。


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